中学校入学

昭和20年に中学校に入学した。当時既に学区制があったのか、我々は皆小樽市立中学校に入学した。広い校庭、運動場、講堂、武道場、プールもある整った校舎だ。手宮の自宅から長橋の学校までは4キロ近く山越えの遠距離だ。初めて脛にゲートルを巻いた。ズボンのポケットは縫い閉して、手を入れて歩くことが禁ぜられた。学校には配属将校が居て軍事教練があり、銃剣術を初めて体験した。国民学校より一段と戦時色が濃く感じられた。

その頃の雑誌「少年倶楽部」には同年輩の少年が軍隊に入隊する記事もあり、中学生も一億総決死の戦いをしているとの認識が強かった。しかし、中学生になった年の8月に終戦となった。

 

敗戦の前後

戦局が日に日に悪化していることは、知れせられなくても何となく感じるものだ。だが国民が一致団結して頑張ればいつかは勝と信じていた。

住んでいた手宮の道路沿いの家並みが建物強制疎開されることに決まった。住んでいた住宅は母の実家であった。ここに住んでいたのは母の両親と父の両親、母、子供四人だった。強制疎開とは防災のため道路沿いの家を取り壊すと言うことなので、早急に引越しを要することと成る。母の両親は岩見沢市へ私の家族は江別市に急遽引越しすることとした。江別には母の妹が居た。引越しの荷造りが終わり、荷物を発送し一段落した8月15日昼に玉音放送を聞いた。前日からラジオで天皇陛下の放送があると聞いていた。必死で頑張るようにとお言葉があるのだろうと家の者は皆思っていた。当日は家の中で起立し、緊張して耳をそばだてた。だが、私たちは恐れ多いが、甲高い意味不明な声の真の意味が掴めず戸惑った。突然母方の祖父が「戦争に負けるはずが無い」と大声を上げた。

「本当に負けたのか?」半信半疑が暫く続いた。

疎開はしなくて済んだのだが、引越しの荷物は発送済みであったし、田舎のほうが住みやすいと判断し、江別に向かうことに決まった。その後の江別の暮らしが最も辛い戦後の時代となるのだったのだが。

 

耐乏生活の始まり

小樽市手宮の家が建物強制疎開の話が出て、適当な移転先もなく、止む無く江別市の郊外に住む母の妹の家に同居させて貰うことにした。引越し荷物を発送して直ぐ終戦を迎えたが、食糧難を心配してそのまま行くことにした。叔母の家庭も我が家と同じ、国鉄から軍属で外地に派遣されていた子供4人の母子家庭だ。我が家も子供数は同じだが父の両親も一緒なので両家庭総員12名の大家族となった。住宅は普通の大きさだが、(8畳、10畳、6畳と6畳の台所が田の字配置)二世帯の家財が入るとまことに狭い。荷物や家具の隙間に寝ることとなる。叔母が父親役で外との交渉や外回りの仕事、母が母親役で家事一切と大まかな役割分担し、一つの所帯としての共同生活が始まった。戦後の生活資材の欠乏は日に日に悪化して行くので、食べ盛りの子供を抱え、初めは衣料などを食料に換えたり、混んだ列車に乗り買出しに出かけたりした。家に近接する畑を借り自家農園にも母たち姉妹が力を合わせて働いた。

 

通学服

食の不足ほど深刻ではないが、通常着や履物の不足にも悩まされた。ボロでも着られればよく、なりふりは気にしてもどうにもならない。寒さが凌げればよしとする。衣服の配給制度は有名無実になっていた。

兄がいればお下がりもあろうが、長男の私にはそれも無い。中学生になっても服の新調は望むべくも無い。体の成長で国民学校時の服は小さくて着られなくなる。止む無く父親の置いていった国鉄の制服・作業服をということになり、だぶだぶながら着ることになった。靴も無かったので下駄で通学した。復員兵が増えて履いて帰った軍靴と物々交換で、どうやら靴が履けることになった。終戦後はゲートルはしなくなったが、戦闘帽に白線をつけた学帽を被る生徒は大勢いた。冬には中学生の多くがマントを着ていた。北大予科の学生にも粗野な身なりをしていた。「バンカラ」スタイルだ。予科ファッションを真似る上級の中学生も少なからずいた。逆に裾を細くしたズボンをはき、油を塗った小ぶりの学生帽を被りチョイ悪を気取った学生もいた。

マント着用者は書店では前方を開き、裾を肩に掛けるように言われていた。万引きの防止策なのだろう。カストリ雑誌といわれたドギツイ粗悪雑誌が岩見沢駅近くの店頭に沢山並べられていた。中学生には禁断の雑誌を、出来心でマントの中にしまい込ませない教育関係者の知恵だったのかも知れない。

 

上江別

移転先の上江別の家は国鉄江別駅から1.5キロ離れた所にあった。駅の近くの江別神社と岩田醸造の建物前を通り、踏切を渡る。家の前の道路は夕張鉄道の上江別駅に至っていた。道路の向かい側は湿地の原野で、その奥に国鉄函館本線が見えた。道路に沿って民家がぽつぽつ建ち裏手は畑が続いていた。ある日この道路をジープに乗った進駐軍兵士が通った。はじめて見る米兵に恐怖心と物珍しさで複雑な心持だった。

玄関脇に浅い井戸があり、水は金気の多い泥炭地特有の不味い水だった。上江別には昔伝染病の隔離所だったという建物があり、少し離れたところに家畜屠殺場があり牛の屠殺するのを見て衝撃を受けた。

冬の風は遮るものが無く吹き付けるので、家は葦で囲う必要であることを教わり、近所の助けを得ながら、どうにか囲いを作り強風に備えた。

戦後炭鉱で強制労働に従事していた朝鮮人(当時の呼称)が、炭鉱から逃亡して農家を襲うという噂が流れ、夜はひっそりとし、普段はしたことの無い戸締りをしっかりして寝たことがある。

昔から洪水の被害地であったと言われる上江別では、共同作業は不可欠で、青年団活動も活発だったようだ。戦後初めて、青年団が演芸会を催し、一層落民の絆を強くした。

今、上江別は住宅地となり当時の面影はない。

 

タバコもどき

戦後は物不足が一層進み、タバコも例外ではなかった。配給は辛うじてあっても葉を刻んだだけに見える代物だ。

岩見沢駅近くにあった闇市では、タバコを手巻きする道具の実演販売があった。紙も無いので英和辞典を割いて巻紙にした。祖父はイタドリなどいろいろの葉を乾燥させたもので増量し、キセルで喫煙していた。ある時、タバコの代用として畑からトウキビのヒゲを採ってきたが、隣の農家の人から「ヒゲを取ると実が成らなくなる」と注意された。

自宅の庭で秘かにタバコを育てている家もあり、タバコは貴重品扱いであった。僅かな配給で得たタバコは物々交換の際は高価値に取引ができるので貴重品だった。闇市にも流れた。進駐軍が駐留するようになってからは、「ラッキーストライク」などアメリカタバコが兵隊の小遣い稼ぎの素として流出されていたが、それらは高嶺の花の存在だった。

 

にわか農婦

今日は何を食べれば生きられるか、毎日そんな思いで苦労をした母と叔母に、岩見沢に住む祖母から、農家の手伝いをしながら借りた畑で、作物を植えたらどうか、との朗報があった。

聞けば、その農家のおかみさんが目を患い長い間悩まされてきたのだが、祖母が民間療法で眼の病を看れて、全快した人が居ると人づてに聞き、祖母の家に訪ねてきた。「目星」の治療は祖母が姑から教えられたのだが、たまたま治った人がいたものの、医療行為はできないと伝えたが、どうしてもと言うことで試みることにした。結果は上々で長年の苦痛から開放され、おかみさんが、金銭を固辞する祖母に農作物を持ってきた。四方山話の中で娘たちの家庭事情を話したところ、人手不足の手伝いと、よければ畑も貸すのでやってみてはどうかと言ってくれたそうだ。

農家の仕事であれば、何かしら食物にありつける、と考えた母と叔母は農家の援助にすがることにした。農家は隣の幌向だという。教えられた先は駅から1.5キロほどの所にあったが、旧石狩川の対岸で渡し舟に乗らなければならない。農家の皆さんはいい人で、ずぶの素人二人を迎えてくれ、仕事の手順や畑の作り方を教えてくれた。

にわか農婦になった二人は、必死の思いで働き、秋には、芋、南瓜が沢山採れるのを思い描き、汗を流した。

農作業が終わっても、長い道のりを歩き、汽車に乗って帰るのだが、ある時、農家の納屋で野良着を脱ぎながら、今晩子供たちに何を食べさせるか考えたとき、「おかずとなるものが何も無い、どうしよう」・・・・

納屋に沢庵漬の二斗樽が二樽あるのが目に入った。迷わず中から二本シッケイして脱いだ野良着に包んで帰った。

また別の日、顔や手は洗ったが、汗まみれの体で汽車に乗り、江別の駅に降りた時、無性に風呂に入りたかった二人は、駅近くの銭湯に直行した。むろん入浴の支度は無いが手ぬぐいだけは持っていた。当時貴重品だった石鹸を隣で体を洗っている人に「うっかり忘れてきたので、石鹸一なで使わせて」と頼み込んだ。あまりのズーズーしさに押され、石鹸が手渡された。

すかさず丁寧に手ぬぐいに塗りこみ、さらに「あんたも使わせてもらったら」と勝手に妹に手渡した。三拝九拝して銭湯を出て急いで帰宅した。

母と叔母は当時の苦しかった思い出を、何十年後も語らい、「沢庵のカッパライ」と「あつかましい石鹸」の話になると、いつも大泣きしていた。

 

ラジオ放送

終戦で社会構造が様変わりした。復興に向かって新たな挑戦をすることとなった。全国民が困窮生活者の感がある世の中で、少しの息抜きとなるのがラジオ放送だった。民主主義、農地解放、円封鎖、戦争裁判などの硬派番組が組まれはいたが、戦時中には無かった新顔が出てきて、一家で雑音交じりのラジオに耳を傾けた。

放送の年度が前後するとは思うが、思い出すものを上げると次の通り。

復員便り、引揚者の時間、たずね人の時間、配給便りなどは、終戦後の時代をずばり物語る番組だ。

娯楽番組では、ラジオ歌謡、話の泉、のど自慢。教養・社会番組では、カム・カム平川英語会話、街頭録音、音楽の泉、が記憶に残っている。特にクイズ番組「話の泉」は楽しかった。

夕刻におしゃべりと軽い音楽を流す、新スタイルのディスクジョッキー風の番組があったが、語り手は徳川無声だったと思う。

中学後期には連続ラジオドラマ「向こう三軒両隣り」「鐘の鳴る丘」が始まった。クイズ・バラエティ番組では「二十の扉」「ピヨピヨ大学」「三つの歌」「日曜娯楽版」と後まで残る名物番組みが目白押しだった。

一方、進駐軍放送があった。アメリカのポピュラー音楽をおぼえようと懸命になった若年層も多かったはず。

 

絵に描いたモチ

酒のんべーには辛い時代でメチル入りの密造酒による失明者のことが話題になっていた頃、我が家の子供たちは、時々ケーキや茶碗蒸しなどの絵をみて唾を呑んでいた。

おいしい食べ物の絵は、母が新婚時代に購読していた婦人雑誌の料理や菓子作りの別冊付録の挿絵なのだ。

極彩色の出来上がり図がいっぱい載っていて、ページをめくると、子供は絵のご馳走を手でつかむようにして口元へ運び「おいしいね」「おいしいね」と言う。まだ幼い子は知らない食べ物かも知れないが、年かさの子は見て空想することができた。

 

学校の弁当

食べるのがやっとの家で、学校へ行く子供に弁当を持たせなければならぬ親の苦労は計り知れない。思い出すと涙がこぼれる。

ご飯は前の夜に焚く。豆とか芋が多く入った柔らかい飯も翌日は少し硬めになるから、底の方で混ぜ物の少ない部分を弁当箱に入れてくれる。引き割り燕麦入りはかゆ状でも固まる。おかずはいい時で「しおびき」、稀に「たまごやき」で、煮込み野菜、昆布とかこなごの佃煮、漬物程度ではなかったかと思う。

岩見沢は農業地帯であるとともに近くに大炭鉱が多くあり、大勢の生徒が通学していた。戦後の復興のため石炭増産施策画採られ、優遇されていたので弁当は「ギンシャリ」おかずも上等だった。農家の子弟は少し落ちるが、私の家の水準からすれば比較にならないほど上等弁当だ。私の弁当を覗き込んだ炭鉱の子から冷やかされた。悲しかった。

 

祖父の死

外地に派遣されていた息子の帰還を待ちわびながら、祖父が他界した。思えば最悪の生活を強いられた最中の頃だった。

祖父母は奥の6畳間で荷物の合間に、私たちの家族と叔母の家族10人は手前の10畳の部屋に寝ていた。冬でも家にはストーブは茶の間に一つだったので、他の部屋は寒かった。幼い甥が栄養失調になるほどだったから高齢者にとっては体力が持たなかったのか、体調が崩れると日を置かずに亡くなってしまった。寺の手配、葬儀店の手配は叔母がしてくれた。これは常識では男の役割なのだ。葬式は自宅でしたが祭壇の置く場所も満足に無い有様です。花が無いので好んでいた干した赤い南蛮の束を供えた。坊さんは飾り花が南蛮と分かり、帰りに欲しいと言ったそうだ。

火葬場へは木枠を乗せた馬橇にお棺を乗せ、母と姉と私が同乗した。2月の雪原を行く内馬橇が急に傾き、ひっくり返りそうになった。

当時は極度に燃料不足であったので、火葬場では石炭は各自で持ち込みが必須だったが、我が家に石炭は無かった。

火葬場の係りは見るからに難しそうな親父さんだった、母は燃料持参できない事情を訴えた。更にいろいろ困窮の状況を話し懇願した。事情を聞いて火葬を承諾してくれて一同は胸をなでおろした。

見かけによらず本当は気の優しい人だった。差し出した特配のお酒で気を良くしたのか、待ち時間もストーブで暖をとらせてくれ、その上帰りには黒光りした石炭の大きな塊を持たせて、「辛抱して頑張れ」と励ましてくれた。

祖父の晩年が惨めな時勢と重なり、あまりにも可哀相な最後だったのが悔やまれてならない。

 

風呂桶

食料の配給が遅配や欠配になり、生きるためには各自が何らかの方法で手当てせざるを得ない状況が起きた。自給用に作った芋・南瓜だけでは足りず、母たちは着物などをもって物々交換に行ったり、田舎へ買出しをしながら遣り繰り工面の暮らが続いた。

ある時、近所の農家がわれわれの家にあった据付風呂を譲って欲しいという話があった。風呂桶は叔母の家のもので、二家族12人にとっては必需品だった。しかし、「風呂に入れなくても死なない」が女親たちの熟慮の末の結論だった。

風呂桶は馬車に載せられて行き、代わりに命つなぎの米が手に入ったのだ。その米にしてもそう長続きはするものではない。

その後は、夏には外で葦囲いをして行水が主となり、銭湯は稀に行く程度だ。厳冬の銭湯通いは辛さが伴った、銭湯までは1.5キロあり、帰りには手ぬぐいは凍ってしまう。わらで編んだ長靴を履き、角巻きを頭から被るといくらか暖かいが前髪は白くなる。キュキュと鳴る帰りの道は長かった。

その頃江別で新しい白っぽいオーバーを着ている子供をよく見かけた。製紙工場で使い終わった布の廃物利用だったのか、暖かそうで羨ましかった。

 

毎日の食事

統制経済で有っても物資が有る時は、何とか成るのだが、米穀配給通帳はあっても、遅配・欠配と成ればこれに変わる食料を工面しなければ生きられない。成長盛りの子供がいる親は何ほど毎日苦労したことだろう。

栄養は二の次、まず嵩だかにする為水を増す、押し麦なら上等、さいの目切りの芋とか南瓜を、大根葉の刻んだもの等が加わる。粒の小麦・燕麦はそのままでは米の飯には向かないので精米製粉所でついてもらう。幸いにして隣家が精米製粉所の職人でソバ、トウキビなども粉にしたものを分けてくれた。加工賃を雑穀などの現物で受取ることもあるようなのだが、そのほうが農家も加工所も良かったのだろう。

家でも子供たちが玄米を一升瓶にいれ棒で突き皮むきをし、石臼でソバ粉を、乾燥したトウキビは手回しの粉砕機を使い粉にした。ジャガイモを釜で山盛りにして蒸かして食べた。甘みのある南瓜は皆が好きで手のひらも顔も黄色になるほどだった。副食が十分ならこれでも良いのだが、時により魚か鶏のおかずがつくが、漬物程度が普通だった。

最悪の時期には小麦のフスマや澱粉粕を粉に増量材として焼いて食べたが、最低の食い物だと思った。

勿論砂糖は手に入らないが人口甘味料として、サッカリンとかズルチンがあった。醤油や味噌も無いので自家製造なのだが塩・大豆は手に入っても麹は無い、塩辛いだけの調味料だった。