小学校 札幌

小学校入学

小学校入学時は当の子供は無論のこと、両親、祖父母、家族もそして近所の人たちも喜び、祝ってくれた。

祖父からランドセルを贈られ、買ってもらった筆箱やノートなどを毎日出し入れしたり、背負ったりして入学の日を待ち望んだ。当時は未だ数え年の時代で、出世時の年齢が1歳であり、正月を迎えて2歳となる。従って、早生まれの子供は7歳、遅生まれは8歳で入学することとなる。幼稚園に入園させるのは特別の家庭であり、一般の子供は始めての集団教育の場となるのだ。家庭で前もって教わることは、自分の名前の読み書きと10までの数が言えればそれでいいとされた。

入学が近づき、母に床屋へつれて行かれ、坊ちゃん刈から坊主頭にされた。別の人間にされて涙を浮かべたと後々まで話の種にされた。

昭和14年、母に連れられて行った入学式の記憶はないが、担任の年配の女性S先生は厳しく恐ろしく感じた。

教科書と教材を近くの店で買ってもらい、大変嬉かった。朝は近所の上級生が何人も迎えにきて一緒に学校に行った。

札幌市立北光尋常小学校だった。

 

学校の環境

近年小学校の辺りに行く機会があり、小学校入学の頃を思い出しながら歩いてみた。

校舎は無論当時の儘ではない。敷地は同じでも形、材質、位置が変わってしまうと、あの懐かしい木造校舎との繋がりがつかなくなる。学校の周辺も一変して、東区役所が隣にある。学校の北方に光星中学校があって、周りは畑だったようにおもう。創成川方に進むと、カトリック教会、北星病院、八角形の家、藤女学校の建物だったのか、外壁がブリキの薄茶色なドイツ風の建物があったと思う。その他にも洋風の建物が多く、西洋の雰囲気が漂うところだった。

運動会は美香穂公園で開かれたのだが、大分遠くにあった感じだった。

運動会用具を一年生も一生懸命運んだ。

 

失禁

私が小学1年生になった頃は、幼稚園とか保育所に入ったことが無い子供が殆どだったので、集団活動に慣れない子も居た。

緊張したり、意志の伝達ができなく、教室や廊下で「おもらし」をすることも結構あった。しくしく泣き出す子の下に流れることや、廊下に点々と色が着くことがある。目ざといやんちゃ坊主が「○○がしょんべんたれた」といえばほかの子もはやす。先生は注意し急いで処置し対応する。チョークで汚物の外に大きな円を書き、とりあえず踏まないようにすることもあった。

あの頃の少年少女はや後期高齢者だ。失禁の心配をする年齢になってしまった。

 

自己負担

家の近くの商店は国定の教科書の販売もしていた。この店は大きな店で地域の百貨店とも言える何でも屋であった。新学期前は教科書を買う親子で大入りの日が続いた。当時の一家には子供が多く4・5人は普通で10人もいる家もあった。教科書は有料であったので、一度に全員の教科書を買い与えるとなると親の出費はただ事ではない。教科書の改定がなければ、年下へ「お下がり」となる。「お下がり」は教科書だけのこどでななく、衣服でも同様であった。 その教科書改定の時期が近付いていた。

学校給食制度も未だづーっと先のことで、お弁当は家から持って行くものだった。

サクラ読本

尋常小学校1年生の国語読本は「サクラ読本」と言われる教科書で、カタカナから始まる。

サイタ サイタ サクラガ サイタ

コイ コイ シロ コイ

ススメ ススメ ヘイタイ ススメ 

オヒサマ アカイ アサヒ ガ アカイ

ヒノマル ノ  ハタ バンザイ バンザイ 

トマレ トマレ ナ ノ ハナ ニ 

ハシレ ハシレ シロ カテ アカ カテ

 

糸でんわを使って電話遊びをしている女の子の挿絵があった。

「モシ モシ、ユキコサン デスカ。」 「ハイ、サウ デス。」「ワタクシ ハ ハナコ デス。 イマ、キヌコサン ガ キテ イラッシャイマス。アナタ モ アソビ ニ イラッシャイマセン カ。」「ハイ、アリガタウ。スグ マヰリマス。」

 

50音の表が教室の壁に貼ってあった。

ワ ラ ヤ マ ハ ナ タ サ カ ア

ヰ リ イ ミ ヒ ニ チ シ キ イ

ウ ル ユ ム フ ヌ ツ ス ク ウ

ヱ レ エ メ ヘ ネ テ セ ケ エ

ヲ ロ ヨ モ ホ ノ ト ソ コ オ

 

 

三大行事

幼稚園を知らない、新小学生にとって学校の行事は始めての体験であり、楽しいものだ。

なかでも、運動会、遠足、学芸会は後々までも忘れられないものとなる。

初めての運動会は学校のグラウンドでは手狭だったのか1.5kmほど北にある美香穂公園グランドだった。1年生も運動道具運びをした。種目は定番の玉いれ、徒競走、と大きな玉を転がして速さを競う競技だ。私は走るのは遅いほうだが小さな賞状は貰った。白シャッツ・半ズボンで鉢巻と白足袋姿だった。

遠足は真駒内の牧場だった。苗穂駅から定山渓鉄道に乗ったのか、乗り物に乗って行った。広い牧場に牛や羊がいた。

学芸会では、1年生合同の劇「舌切り雀」で、私はスズメ役だった。「舌きり雀」の話は1年生の小学読本にも載っていた。劇に出演することに決まって、母が黒地に白の絣模様の着物を新調してくれ、家でも稽古をした。この劇の出来が良かったのかどうか分からないが、その年札幌市民公会堂で開かれた市内の小学生による合同学芸発表会に出ることとなった。

当時市民公会堂は豊平館の北側に隣接した建物で、入り口は北1条通りに面していた。建物の位置は現在の札幌市民ホールの場所である。

 

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(後に豊平館は中島公園に移築されtた。その市民ホールも新築中である。広大な庭の一角にNHK放送局が中島公園から移転したが、年を経て新局舎を北一条に建てる。4放送局が立ち並ぶことになる。)