カムカム英語

外国人力士の日本語には何時も感心させられる。発音も表現力も素晴らしい。其れに引き換え自分の国語力は大丈夫なのか少々心もとない。中学、高校、大学で学んだ英語は全く使い物にならなかった。国際化が進む現在では、日本の会社でも社内用語を英語としている企業もある時代になっている。

国民学校在学当時には英語は敵国語としてそれまで日常に使っていた外来語さえ日本語に置き換えて使うようになていた。

終戦が中学1年生だったが、初めての英語の教科書に何か書かれていたのか記憶に無い。「This is a pen.」だったのだろうか。

中2の頃ラジオ放送(日本放送協会)で日常英会話の番組が出来た。高3の頃まで続いた平川唯一先生の「英語会話教室」だ。夕方だったか定時週間連続放送だった。テーマミュージックが証誠寺の狸囃子の替え歌だ。我々と同年輩の者なら誰もが口ずさめるはずである。「カムカム エブリバディ ハウデュデュー アン ハゥアーユー? ウォン チュー ハブサム キャンディー? ワン アン ツー アン スリー フォー ファイブ? レッツ オール スィング ア ハッピーソング スィチャラ ラ ラ ラー」

平川唯一先生の明るい声は未知の文明国アメリカへの憧れと共に深く心に届くものでした。テキストを買ったこともあった、しかし、実用英会話は使う機会もないまま忘れてしまった。

戦後、進駐軍が来て怖いのと物珍しさと複雑な思いをもって遠くから見ていた。「ギブ ミー キャンデーと言えば飴やチョコレートとかチューインガムを呉れる」と聞いたことがあったが、ねだったことは無かった。が一度だけ、何も言わなかったが通りすがりにキャンデーをばら撒いていったジープにであったことがあった。テーマ曲の中の「ハブ サム キャンデー」がそのときの思い出と重なる。

カムカム英語の平川先生が昭和天皇の終戦の詔書を英訳し、敵国に対し国際放送でアナウンスされた方だった、と知ったのは平成の時代になってからであった。

 

学校給食

昭和8年生まれの私たちは学校給食を受けた経験を持つものはほとんど居なかったか、いても極少数だっただろう。 私は学校給食の体験はまったくなかった。

食糧難の真っただ中のこと、弁当も今では犬も食わない粗末なものだった。

昭和10年生まれの妻にはその学校給食まえの補食らしきものがあったという。

札幌市の小学校でもすべて同じだったかは不明だが、毎日ではなかったが補食があった。月に2・3度味噌汁がでた。6年生の児童が教室でイモや人参、大根の皮むきをする、刻んだ野菜は小使い室(当時は学校用務員を小使いさんと言っていた)へ届ける。昔から小使い室には竈があり、大きな釜で湯を沸かしていた、昼時に各教室の代表者が、薬缶を持って湯を貰い、教室内の児童についで回っていた。そうか、我々には学校給湯はあったのだ。

届けた野菜は小使い室で汁物の給食を煮ていたらしい。

その頃は子供の数も多く、一学年が6クラス、各教室の定員も多かったから毎日の給食はできないことだ。

進駐軍が来てから食料の救援があり、一般家庭にも配給されることがあった。

小学校にも援助食品の給付があり、月に何度か顆粒状の乾燥卵の日、脱脂粉乳の日があった。これらは緑かかた軍隊色の大きな丸い缶入りだった。嬉しかったのは魚の缶詰。2人か3人に1個当たり、蓋を開けて分け合って食べた。

学校給食といえばパン給食を思い出す人も多いようだが、パンを食べた日は無かったという。

今どきの学校給食をテレビで時々見る機会があるが、栄養バランスのみならず、メニュー、味、量の豊かさは驚くばかりである。

 

DDT

戦後国民は皆非衛生な暮らしを余儀なくされていた。銭湯は週に何日か休業する、石鹸は手に入りにくく、あっても魚油製の半乾きで乾燥すると半分になるような代物である。従って、洗濯もままならない。

多くの家庭では、頭や下着に寄生するシラミの駆除に苦労していたと思う。

シラミは発疹チブスの病原をもたらすとして、外地からの復員兵や引揚者は入国時には、殺虫剤のDDTを背、腹から噴射された。青函連絡船でも乗船の時などで、DDT散布があった。汽車通学の車内には首や頭に白い粉が付着したままの乗客も大勢乗っていた。散布を受けた人は匂うので直ぐわかる。列車の客室も噴霧が行われていたのか客車もDDTの匂いがしていた。

後年、DDTの薬害が取り沙汰されたが、当時はこれでシラミが撲滅されると有り難く思った。

 

お金の価値

物不足の中で暮らしのやり繰りを、子供として母親の苦労が分かっていた。

インフレが進行していた、突然預金封鎖するとの話がでて、預金の引き出しが自由に出来なくなるらしい。支給される給料はどうなるのかと、心配していた。大して預金が有る訳でないが、母の心配がまた増えた。

旧円から新円へ切り替わるので、旧円は銀行預金して新円で下ろすという。新十円紙幣は米国とも見える斬新なデザインだった。この新紙幣が出回るまでの間には、旧紙幣に(右上だったか)証紙を貼り付けてあった。

物不足とインフレを象徴する話として「尺祝い」なる言葉が語られていた。集めた百円札束を積み重ね1尺になったのを祝ったという、この造言は闇米を買い損ねた者が、悪徳農家をやっかみで作った戯言なのだろう。

 

リンゴの唄

戦時中あれほど歌っていた軍歌が、終戦を境に誰も歌わなくなった。戦後の続く厳しい生活苦の中に沈んでいた最中、「リンゴの唄」が歌われるようになった。明るいメロディ、歌詞にくわえ歌い手の切れのいい声にどれ程勇気付けられたことか。「リンゴの唄」は戦後の復興の応援歌となった。戦後の時期を回想するとき必ず思い出す歌だ。

リンゴの唄を何処で覚えたのか、多分ラジオ放送か友達から教わったのか記憶に無い。放送はNHKのみ、リクエストに応ずる番組も無い、繰り返し聴くことも出来なかったが、全世代の愛好歌になった。

胸の奥に仕舞い込んだ軍歌だが、一方でひっそりと軍歌を歌う姿もあった。戦後暫く続いたのだが、街の片隅で軍帽・軍服・軍靴に白衣を着、義手または義足をつけ、アコーディオンを弾き、軍歌を歌う傷痍軍人装束の路上ライブがあった。

 

花嫁さん

戦地から兵隊が復員して、結婚が多くなってきた。ときどき角隠しの花嫁さんが道路を数人の付き人と歩いていたり、馬車に乗って通るのを見かけた。また、通学列車に乗り一つ二つの駅間を移動することも有った。乗車中のお客さんから祝福の言葉がかけられ、恥ずかしいのか嬉しいのか俯いたままだ。晴れ着を新調できる時代でないから、親戚か髪結いさんから手当てしたのか、或いは物々交換で入手したのか、着飾った花嫁さんを見るのは晴れの気分になり、自分も縁起がいいような気がした。

 

収穫物の運搬

幌向の旧石狩川向かいで畑を借り、母と叔母が丹精込めたて農作物を育てていた。ようやく収穫期を迎え、予想外の出来で嬉しかった。採れた物は全部家に運ばなければならない。だがそれも大仕事だ。渡舟で川を渡り、幌向駅まで1.5キロの道のりを背負って歩かなければならない。列車に乗り、駅からさらに1.5キロ行かないと家に着かない。

何度も畑仕事に通ったことが、運搬も当然私の役目だ。列車通学していたから定期券もある。

ある日、南瓜を沢山詰め込んだリックサックを背負って駅近くまでたどり着いた時、線路の彼方にこれから乗る列車の姿が見えた。

急げば間に合いそうだ。気は急ぐが荷は重く、南瓜は納まりが悪いので、走ることが出来ない。列車は近づき、私が駅に近づいたときには既にホームに到着していた。改札を通らず真っ直ぐホームに上がった時には、動き出していた。

咄嗟に静かに向かってきた列車の乗車口の取っ手に捕まえ乗り込もうとした。グルッと背の荷物が回転した、そしてホームに体が叩きつけられてしまった。進行方向に走って飛び乗るのと逆なので、当然の動きなのだ。

駅員が駆けつけて来て無事を確かめてから、長々と説教されたが当然のことだ。下手すると死か大怪我だったかも知れない。

 

電灯

戦後は電力事情も悪化していて、家庭への送電も需要を満たせなかった。米が不足すると水を増し粥とする如く、電圧を低下させて供給することがしばしば行われた。このため電灯は光量が極端に落ちる、当時この状態を「ろうそく送電」と呼んでいた。さらに、進行すると電球の中の線が少し灯る程度になることもあり、「線香送電」と言われる状態にまでになることもあった。

電圧低下送電は前触れなしに切り替わるので、ラジオはだめ、手仕事も出来なくなる。一番困るのは学校の試験勉強が出来なくなることだ。

増産体制下の炭鉱地帯では「ろうそく送電」は無縁だろうから、多数いる炭鉱地帯の子とは試験結果も多分格差が出たことだろう。

家庭の電気事情がこのような状況下にもかかわらず、電気パン焼き機なるものが秘かに出てきた。商品ではなく手作りなのだ。構造は木の箱の側面にブリキ?板を張り電線をつなぐだけのシンプルそのもの。水を加えた小麦粉を箱に流し込み通電するのだが時間がかかり、大勢の子供のいる家庭では使い物にならなかった。

 

露天の闇市

物不足の時代は国民そろって貧乏暮らしである。そんな世の中でも、どうしても欲しいものがあれば闇ルートに頼りたくもなる。しかし、お金が無ければそれも叶わない。

岩見沢駅近くの通学路にも闇市の露天が並んでいた。地方の町の露天には高級品は無い。ぶよぶよの石鹸、鍋、タバコ、中古の靴、いも羊かん、せんじ薬、タバコ巻き機などは表に出して売っていた。交渉しだいでは陰から欲しいものが得られたようだ。時にはこの露天の並びに口上を演じる売人も来て、がまの油売り、馬の油売りなど衣装を着て名演技が見られた。また、「火事で工場が焼けた」など泣き売りの万年筆売り、サクラを使って売るカストリ雑誌売り、等々帰りの汽車時刻を気にしながら見物した。

 

鉄橋

列車通学でいつも一緒の級友から誘われて、途中下車して家に寄ることにした。親友のK君の家は、幌向駅から直線で1.5キロにあり、幌向川の縁にある水田農家だった。現在は函館本線に沿って国道が通っているが、当時の道路は幌向川の近くで迂回していたので相当遠回りだった。

お婆さんが迎えてくれた。昼時ではなかったが、ご飯をご馳走してくれた。白いご飯と味噌汁の美味しさは格別で、夢にまでみたご馳走だった。

気が付いた時には帰りの汽車の時間が迫っていた。来た時の迂回道を行くと間に合わないかも知れぬ。K君の家の近くの函館本線の線路には鉄橋が架かっていて、それを渡れば駅まで最短距離だ。どうする? 誘惑に負け鉄橋を渡ることに決めた。

鉄橋には線路の間に幅30センチほどの板が敷いてある。作業用なのだろう。

汽車の気配を確かめ、渡り始めた。初めは川ふちの木の上で何とか進んだが、やがて川の上にきた、高さもある、川が枕木の隙間から見える、流れが目に入り真っ直ぐ歩けず、すくんでしまう。汽車が来ないかも気にかかる。橋の中央部まで来たので引き返すことも出来ない。土産にもらった大事な米も邪魔になる。毎日列車で渡っている鉄橋がこんなに長かったのか。無謀を悔やんでももう遅い。

それでもようやく無事に渡り終えた時、思わず神様が助けてくれたと思った。その後もしばらく緊張がつづいた。

このことは誰にも話さなかった。

その後暫くして、近くの町で、兄弟が鉄橋を渡り、兄が川に落ち助かり、弟が事故死した。

 

父の帰還

敗戦後は一日も早い帰還を家族は待ちわびていた。父は軍属として爪哇島鉄道隊に派遣されていた。

終戦から一年を過ぎて、ようやく見すばらしい姿で帰ってきた。帰還途中で使用する「アンペラ」という薄い植物で編んだ敷物とバリ島の影絵芝居の人形を模した20センチほどの人形が現地からの唯一の持ち帰り品だった。4年4か月ぶりの対面に、中学生になっていた私は、照れて再開の喜びを顕にすることが出来なかった様に思う。父はある期間後休養したが、日を待たずに国鉄に復職した。そして家族も札幌の鉄道官舎へ転居することも決まり、厳しい世相の中にあっても少し希望の光を感じた。

 

父の初仕事

父は終戦とともに抑留され、長い船の輸送をへての帰還であったが、思いのほか健康状況は悪くはなかった。

帰国後に直ぐ実行した家事労働が塩作りだった。塩は専売品であったが、不足であれば自衛手段として作るしかないと、知人と海水で塩作りをした。無論自家用の確保との発想だが、うまく行けば物々交換のモトになればいい、との思いがあったらしい。

だが、素人の思い付きが直ぐに叶うはずもなく、持ち帰った塩は弁当箱にやっと一つほど。いがらっぽい塩で湿ったままだった。

他に澱粉を使って「水飴」を作ったこともある。家庭で出来る製法を聞いてきて実行してみたのだ。それが予想外に大成功。久しぶりの甘味を大事に味わうことができ、皆が大喜した。製法は思い出せないが、飯炊き釜に大量にあった汁を煮詰めるのに長い時間がかかり、もどかしい思いをしたことだけ記憶にある。その後も失敗することもあったが、甘味作りで父の株が上がったのは間違いなかった。