テレビを見ながら思いだす

テレビの画面を見ながら、関連付けて突然子供の頃の思い出が過ることが時どきある。

NHKの「坂の上の雲」では広瀬中佐が登場するの海戦シーンでは、国民学校唱歌「 とどろく 筒音 とびくる 弾丸、荒波あろう デッキの上に、闇を貫く 中佐の叫び、「杉野はいずこ 杉野は居ずや」 、国民学校の頃の愛唱歌だったのだろう、3番まで歌ってしまった。

津波の画像では「稲むらの火」が、白黒の挿絵の入った教科書とともにストーリーを思い出した。あの国語読本は何年生のころだったのだろう。

また、里に続く山々を見ると、「向こうの山に登ったら 山の向こうは村だった つづく田んぼの そのさきは 広いひろい海だった」、 2年生に進学し、新しい教科書を本屋で買って、 わくわくして読んだ思い出の文書で、特に好きな文章として忘れがたい。

テレビで見る現代の年少の女子の話し言葉には心地悪さを感じる。私の子供の頃は、女の子と男の子には気取らない普段の会話でも「らしさ」があり、女の子の言葉にはやさしさがあったと思う。教科書にも「もしもし ゆきこんですか 「はい そうです」「わたくしは はなこです。いま きぬこさんが きて いらっしゃいます。あなたも あそびに いらっしゃいませんか」「 はい ありがとう すぐ まいります」。

また、最近、森光子の追悼公演「放浪記」を見た後、国民学校4年生の頃、林文子の小説「泣き虫小僧」を読んだのを思い出した。ネットで青空文庫の原作をダウンロードして読んだ。新しい男ができた母親から時々うとまれ、親戚をたらい回しにされる子供、現在の小児虐待で話題になるような哀れな少年の放浪記なのだ。

少年は勉強ができ級長なのだが、休みがち。副級長の女の子が支えてくれる。教室での女の子の級友や先生との会話が美しい言葉で交わされる。

言葉は時代とともに変わるものだ、とは心得てはいるものの、今時は、なんでも「かわいい」、「すげー」で1把ひとからげではどうも私の心には収まりにくい。

否定形に使われていた「ぜんぜん」も今の世の中では「ぜんぜん かわいい 」 などと言っても別に可笑しくない。いい大人も使っている。

年寄りの愚痴でしょうかね。

 

おっかない思い出

私が入会している「札幌シニアネット」では地域活動の一つとして地区センターなどの要請を受けてパソコン講座の講師派遣事業を行なってる。

今年(2012年)も実施するとメーリングリストで紹介があった。このメールを読んだ妻が、子供の頃の恐ろしかった体験を話した。彼女は私と2歳半年下(77歳)だから同世代と言える。生まれも育ちも札幌子で、札幌市立幌西国民学校の近くに住んでいた。当時は高い建物もなく、家から藻岩山の麓まで見通すことが出来た。

ある日、家の付近を何人もの警察官が行き来するのが見えた。事件か。暫くしてセパードの警察犬も来て何かを捜索しているようだ。

近所の人も気味悪く「どうしたんだろうね」と声を潜めて話をしていました。

警察犬は何度も家の前の道を通るうち、自分の家の前に来ると動かなくなった。何度回繰り返しても家の前に来ると止まってしまった。警官が集まり自分の家に誰かが潜んでいると推定している様子。子供心にも大変なことが起きている、おっかなくて(恐ろして)たまりません。そしてとうとう縁の下に隠れていた人を見つけ、呼びかけをし、しばらくしてとうとう取り押さえた。

後で聞くと、近くにあった少年鑑別所から脱走した少年だったそうだ。

その後、その鑑別所は他に移設され、その土地には札幌市の水道局、資料室などに利用された。そして現在は「中央区旭山公園通り地区センター」として活用されている。

札幌シニアネットのパソコン講座への講師派遣義業の会場を読んで、当時のおっかない思い出が蘇ったのだった。

彼女の思い出話を私が文書化したもので、正確な記録では無いことを申し添えます。

 

 

母の愛唱歌

母が私達子供を相手に歌ってくれた歌は流行り歌や軍歌の類ではなく、童謡、唱歌、遊び歌だった。そして自分のためにひっそりと歌うのが賛美歌だった。

母の実家はキリスト教徒であったので、教会や家でよく歌っていたのだろう。元会津藩士の家は代々仏教徒であったが、曽祖父が渡道してからキリスト教を信仰するようになった。伝導にも尽くしたと聞いたことがある。

母は嫁ぎ先の仏教の教えに従って家を守ってきたが、クリスマスなどの行事や賛美歌は愛唱歌として我が家に留まった。

「きよしこの夜」「いつかは知らねど」「諸人こぞりて」「いつくくしみふかき」「主よ身元に近づかん」(題名は正しく無いかもしれない)などは耳で覚えてしまった。教会で行われる結婚式でも葬儀の際でも賛美歌を歌うことが出来るのは母からの影響なのだろうと思う。

話は飛ぶが、あの豪華客船「タイタニック号」の海難事故があって、今年(2012)で100年経過した。MHK-TV番組では、ただ一人の日本人乗船客で奇跡的に生き残った細野正文氏の音楽家である孫が、犠牲者の共同墓地のあるカナダ・ハリファックスを訪れ、関係者から当時の様子を訪ね歩いた。映画でも助けを求めパニックになった乗客と必死に任務を遂行する乗務員の様子が描かれていた。最後まで冷静に甲板で演奏を続けた演奏者たちに強い感動を受けた。

最後に演奏した曲が何であったのか。正確な記録はないが「主よ身元に近づかん」だったであろうと言われている。

取材に訪れた音楽家の細野晴臣さんもファリファックで地元の人達とこの「主よ身元に近づかん」を演奏した。

番組「旅のチカラ」で最後に演奏された曲を聞きながら、幼い頃の母の歌う愛唱歌に巡りあい、母を思い出したのである。

 

ニシン漁のころ

近年になって幻の魚とまで言われていた「ニシン」が小樽市付近の海岸や石狩湾の各地で取れるようになった。量は昔の最盛期とは比較にならぬものの、「クキ」の映像を見ると期待感を持たせてくれる。

私が小樽市に住んでいた昭和20年頃は、石狩湾の浜では漁不漁の年はあってもニシン漁があった。記憶では小樽で3月初めころから漁が始まり、漁場が石狩湾を北上し、増毛あたりで終わっていたと思う。猟期は2カ月以上あって道内の各家々では函単位で買い、さまざまな家庭料理にして食した。同じ魚を飽きさせずに食べる知恵が多くあり、当時を知るものにとっては懐かしい味だ。昔のニシンのほうが身がしまっていたようにも思う。

初ニシンがとれたと聞くと各家庭が一斉に焼いていた。初ニシンは尾頭付き、一人一尾。油が乗っているので、皆の家が外に出した七輪で焼くので、焼き煙で辺り一面が煙と匂いが立ち込めていた。

ニシン漁の現場は知らないが、陸揚げ、運搬の様子は見たことがある。

夏に泳ぐ小樽港の手宮近くに石炭積み込み用高架桟橋の基部の当たりの岸壁。小さな磯船がいっぱニシンを積んで岸壁につくと大勢で素早く陸揚げする。

直ちに運搬車に積み替える。赤ケットを着た引手と後ろから押すもの、大きな輓曵犬も懸命に働いていた。

ニシンの漁次第でその後の家運が変わる。

母方の祖母は塩谷でニシン場の親方だったらしい。妻の祖母も今金でニシン漁場をしていた。

最盛期のころはニシン漁だけで十分暮せた、その上蓄えもできた。祖母は無筆だが切れ者で知られるほどで内助の功のある女性だった。

旭川市に住んでいた頃の学友にI君がいたが、祖父は祝津にいて、夏休みにはいつも行くといっていた。2年後小樽に移ってから祝津に行った時I家はニシンの大手の漁家で見事な邸宅だったので驚いたことがある。

ニシン不漁がつづくようになり、母方の塩谷では、ニシンを追って樺太に渡った親族もいた。

妻方の今金の漁家はニシンに見切りをつけ、兄弟親戚は他に転業、本家は農地をもった。

戦後農地解放となり地主をおりた。早くから実子や親せきの子供に教育を受けさせる考えがあり、札幌に子供達のために家を建て共同生活させながら高等教育をさせ、漁業と無縁になった。

 

母のミシン

NHKの朝ドラ「カーネーション」(2011年後期)はコシノ・アヤコさんをモデルとしたドラマだと言われていて、ミシンがドラマの重要なツールとなのっている。、

着物姿の糸子がミシンを踏む姿を見ると、私の子供だった頃の母の姿を思い出す。

物覚えのつくころから我が家には足踏み式のシンガーミシンがあり、私たち姉弟の服やズボンは母の手作りが多かった。

普段着はいつも着物の母も、夏にはアッパッパなどの簡単服を自分で縫って着ていた。

当時の婦人雑誌には、洋裁の型紙も付いている別冊付録などもあって、子供向けの服や流行のスタイルがあった。

コシノ・アヤコさんより4歳年上の母は小樽市高等女学校で裁縫の基礎教育を受けていた。当時学校の裁縫室には既に7台のミシンが備わっていて、女性教師から和洋裁の基礎を学んだ。女学生の母はこの時ミシンに魅せられたのだろう。

其の後、札幌のF女子大の初代学長になったのがこの時の裁縫の先生であった。これは母の自慢だった。

「ミシンを使って様々なモノづくりをしたが、特に思い出すのは4歳年下の妹のために、女学校の制服を縫ったことだ」と、この服を着た妹の写真をみせて昔話をしてくれたことがある。

私が大人になってからミシンを娘に買ってやった親の気持ちを考えてみた。

母は小学校の頃から、母親代わりに炊事洗濯などの家事と弟妹の面倒をみていた。父母と一緒に手宮の鉄道官舎で暮らしていたのだが、当時舅姑が鉄道の合宿(鉄道員の独身寮と宿泊を兼ねた大きな施設(合宿と言っていた)を任せられていて、そこに手伝いに行っていたのだ。舅は会津生まれの侍気質の頑固者、姑は青森生まれのお人よしで、宿客に満足のいく住環境と大勢の従業員を使いなおかつ採算も合うように経営をするのは難しい。何でも出来るシッカリ者の嫁は欠かせない要の存在だったのだ。

母親代わりの手助けを長くした功に報いたかったので、ミシンを嫁入り支度に親が大枚をはたいたのだろうと想像できる。

戦争が激しくなり物不足が深刻化し、国民学校4年生の頃には食糧も衣料も配給・切符制となった。生地も手に入らないので、大人の服を利用したり着物からの仕立て直しに細々とミシンが使われていた。

戦後になってようやく生活が落着き、スフとか人絹混紡の布が売られるようになると、世の中の人々が自分で衣服を縫うようになり、やがて洋裁ブームが訪れた。その頃からミシンは母から娘に引き継がれた。

母が他界して久しいが、ミシンは未だに我が家に存在している。母が大切にしていたミシンは捨てることができないでいるのだ。

シンガーミシンには大正モダンの趣がある。足回りの鉄部分のアールヌーボー風の曲線とロゴの洒落た装飾がいい。

思えばパタパタ動く母の足元には、糸の芯の縁に刻みをいれ、ゴム動力の戦車の玩具で遊ぶ自分の姿が居る。

 

クリスマス

我が家は宗教に関しては、大らかなものだった。父系は仏教、母系はキリスト教で、父母の結婚は教会で挙式されていた。

小さなことから、家には神棚があり、神社参拝をするし、お寺参り、お盆のお勤めもしている。勿論、山の神様、田圃の神様も信じている。こんな家庭なので、子供の頃からクリスマスには教会には行かなかったものの、夕餉にはご馳走が並び、讃美歌を歌い、ケーキを食べた。

私たち子供はサンタクロースからのプレゼントを楽しみにしながら夢路に入る。国民学校2年生頃までは贈り主はあの方だと信じていた。そして私は何処の家でも、我が家と同じようなクリスマスをするものと思っていた。

 

ゴミの収集

私が子供だった頃は、どの家も家庭ごみは、今と比べ物にならぬほど少なかったと思う。

新聞紙、雑誌は包装、炊き付け、塵紙代わり、下敷きに利用された。着物などは、修繕、お下がり、仕立て直し、洗い張り、オムツ、雑巾、網紐、ぼろ・・・と最後まで使い切っていた。万事かくの如くであり、ゴミになる前に利用してしまった。

食べ物でも、冷蔵庫は無い時代だが、さまざまの家庭の知恵が豊富だった。

如何にしても捨てなければならぬ生活ゴミはでるので、何軒かで利用するゴミ箱が道路に面したところに置かれていた。

ゴミ箱は茶箪笥位の大きさの木製で上部が開く蓋があり、ゴミは蓋を開けて投入する。前面は上部に引き上げる可動蓋がありここからゴミを回収する。

ゴミの回収には木の枠を付けた荷馬車が来ていた。収集のおじさんはゴミ箱の前蓋を上げ、前に「み」を宛がい熊手のようなものでかき出し、馬車に放り入れていた。

当時、荷物運搬は殆どが馬車、馬橇だった。市内には多くの馬が運搬に利用されていたが、馬の排泄物は路上にそのまま取り残されていた。

 

デパート

小学校入学のころ、札幌のデパートは札幌駅近くに、五番館、大通公園近くに三越と丸井今井の三店だった。

デパートに行く時は皆、普段着から「よそ行き」に着替えて出かけた。レンガ建ての五番館は駅通りの入り口から入ると、右手が菓子売り場で、リングのドーナツが売られていたのを思い出す。木製の階段を上がると、洋服や和服の売り場だったと思う。

丸井さんの最上階には遊戯施設があった。素焼きの玉を鬼の的に投げつけ、命中すると金棒もった腕を上げ「ウォー」と目や口を開いて大音響で吼える。兄さんたちも遊んでいた。いろいろ遊具があったのだろうが、楽しかったのが電動の馬だ。銅貨かメダルかを入れると上下に動くものだ。おばけ鏡もあった。

親の買い物について歩き、運がよければ玩具売り場に寄ることもある。品定めした玩具を巡り親とのやり取りがあって、ようやく玩具が手に入る。稀には食堂に入る。そんな時は最高に嬉しかった。広い食堂にはお客も大勢なのだが、三越では窓際のテーブルは外の景色が見えるので特に嬉しかった。給仕のお姉さんは頭に白い前飾りに白いエプロンの制服だ。ラーメンを食べた記憶もある。

夜空にはサーチライトの光が回転する。当時札幌一番高い建物だった丸井さんの塔屋にサーチライトがあり、札幌全市で光の流れるのを見ることができた。なぜか札幌市民には丸井デパートだけ「丸井さん」とさん付けする人が多い。

 

もったいない

昔の生活では、使えるものは、最後まで使い果たすのが、当たり前のことだった。従って、物を安易に捨てることは恥であった。一例を挙げれば、着物は洗い張りは自宅でする。夏になると、解いた着物を洗い、糊付けして張り板で乾かす。針の付いた竹を何本も張って乾かす。冬には着物を縫い直す。いろいろ作り直し、最後はボロとなるまで使い切る。

「もったいない」「粗末にすると罰が当たる」は子供のときから躾けられていた。ご飯は一粒たりと残さないとも言われてきた。社会でも同じ、金物やボロ、紙などを買い集める「お払い物屋」、鍋・釜の修繕をする「いかけ屋」、洋傘修繕「コーモリ傘張替え~」などが住宅街を回ってきた。スキーが折れると「ブリキ屋」でブリキを巻き修繕して使う。電気はこまめに消していた。昔は当たり前だったことが、今では「リサイクル」とか「無駄をなくそう」とPRしなければならない社会になってしまった。

 

ラオ通し屋

まだ刻みタバコが全盛のころ、表通りからピーと軽い音が近づいてくる。その音で「ラオ通し屋」さんが来たことが分かる。

刻みタバコを吸うには、キセルをつかうが、キセルの中間部のラオ竹がタバコの煙のヤニがつき、通りが悪くなる。このヤニ掃除をする行商で、小型のリヤカーに火器で蒸気を貯める装置のほか簡単な道具を積んでいる。「ラオ通し屋」さんは滅多にしか来ないので、子供たちも集まり見物するのだがヤニの匂いが漂っていたかもしれない。

ヤニ掃除には蒸気を竹筒に通して行う。吸い口、火皿部分も掃除し、真新しく仕上がる。手際のいい仕事ぶりが面白かった。

 

煙突掃除

北海道では寒くなるとどの家でもストーブで暖を取る。台所、客間にもストーブを取り付けたとしても、必要のときだけ使い、ほとんどの家では茶の間のストーブが暖房の主役だ。障子やふすまを閉め、この部屋だけはストーブが赤くなるほど暖める。薪を使う家もあるが、都市では石炭のほうが多かった。我が家は国鉄の購買から秋に山ほどの石炭を買っていた。茶の間のストーブは暖房の他煮炊き、湯沸し、洗濯物の乾燥と利用は多面的である。ストーブの種類もいろいろだが、貯炭式のものは、空気の調整で一晩中弱火に留火して置くことができた。石炭を燃やし続けると、排煙のための円筒内にはススが着き、ストーブの燃えが悪くなるので、一冬に2回ほど煙突掃除が必要になる。円筒掃除は慣れないと、時間や手間がかかるだけでなく、フランで家中も外回りも真っ黒けになる。

わが家では母が部屋に新聞紙を敷き、布袋と円筒掃除ブラシを使い、一人で手際よく掃除をしていたが、父は子供の目にも下手に見えた。煙突掃除はどこの家でも自分でしていたようだ。

しかし、プロの煙突掃除屋さんもいて、ブラシを肩がけし、雪道を自転車に乗り、得意周りをしていた。

友達の家でプロの煙突掃除を見たことがあるが、汚すことなく素早い掃除振りにビックリした。上手だと思っていた母の掃除振りとは比べ物にならない鮮やかさだった。

 

襖と障子張替え

子供の居る家では襖は穴が開き、汚れたりする。酷くなる頃には、襖の張替えの職人が来る。

襖紙、下地紙、のり箱、刷毛などを持ち込み、襖の木枠と取っ手金具を外し、表面の紙を剥がす。のり箱で糊を薄く刷毛で延ばし、初めに穴を紙を張って修理する。次に広げた襖紙に薄く刷毛で塗り、サッツと襖に貼り大きな刷毛で貼り付ける。

次々に張り変え、取っ手を取り付け枠を嵌めると完成する。一人で黙々と、手際よく進む。物珍しさも有り、傍で見ていと、自分もやって見たくなる。

障子は子供ばかりでな大人でも、穴を開けることがあり、穴は桜の花とか紅葉の葉の形に切った障子紙でツギを当てておく。

大きく破れたとき、汚れたときには張り替える。とくに正月を迎える頃は自分たちで家中の障子の張替えをする。

最初に古い障子紙を全部剥がすのだが、大抵は子供が紙剥がしをする。最初は紙を手を突っ込んで破るのが堪らなく快感だ。その後は障子の桟を濡らした雑巾などで、残らず取り除くのだが、それが結構大変なことなので、しだいに飽きてしまう。張り方の手順は次のとおりだった。糊は洗面器にごく薄く延ばし、毛刷毛で障子の桟に軽く塗る、この時障子を逆にして立て、上から障子紙を当てる。端を安全かみそりで切り落とす。そして下段へ進む。普通の形では4段張りだ。

霧吹きをして紙を軽く湿らせる。水を口に含み霧状にして吹きかける方法が普通のやり方だ。乾くとピンと張る。取っ手部を×状に切り凹ませ、裏から貼った紙に糊付けすると完成。職人が張ったような出来栄えになる。

 

下駄の歯入れ

下駄は靴以上に普段履きとして、大人も子供利用していた。下駄の種類も多く歯は取替えができる。ひより下駄、雨降り用の高足駄、学生の高下駄などで、歯が擦れると形を補正したり、歯を入れ替える。鼻緒も取替え、補修をすると又新品同様に蘇る。

この仕事を台車の上に箱型の小屋を載せて引き、住宅地を「下駄の歯入れ」と大きな声を上げて回る下駄やさんがいた。

人一人が入る狭い作業台には鼻緒が下がり、道具箱が整っている。客がつくと小屋のなかで、足でおさえ、小型のカンナを使い、道具と手足を巧みに操って短時間で仕上げるのである。手際のよさは見ている子供も歓声を上げるほどだ。少し暇ができると、ミニの下駄を作り鼻緒を付けサービスとして子供に呉れる事もある。

鼻緒ははいている内に切れるものだが、先の所が切れた時は子供でも挿げ替えができた。

 

寒修行

今は見ることが無いが、その頃の人々は信仰心が厚かったのだろう。冬の寒い時期(寒の間だったのか)信徒の年配の女性が数人連れ立って家々の戸口を訪れていた。右手の小さい鐘を動かして鳴らし、経文を歌うように唱え、時々左手に持った小槌で鐘を鳴らす。頭巾をかぶり、和服のコート、もんぺをはき長靴の姿であった。

別の一団は白い衣服で、団扇の形をした太鼓を鳴らしながら、経文を唱えながら住宅街を歩く。

大きな円い笠を被り、白装束に黒い衣を羽織ったお坊さんも回って来た。

稀には、長編み笠を被り尺八を吹き、戸別訪問をする虚無僧を見ることがある。見るからに不気味で、子供は遠巻きにして様子を眺める。笠の中の顔はどんなのか見たかった。

 

近所の付き合い

日ごろは近所のどの家も質素な暮らしだった。それが当たり前で特別貧乏だとは思っていなかった。子供が4・5人いる家庭は普通だったので、近所には大勢の子供がいた。昼時、よその家でご飯を食べるたり、悪さをすると、他家の子に対しても近所の叔父さんや叔母さんは厳しく躾をしていた。

家で何かご馳走を作ると、互いに近所に振舞うことが日常的にあった。子供が代わってお使いに行くこともある。「こんにちは これ 食べてって・・ と 」受けた側では入れ物を洗い、何か有り合せの一寸した物をお返しとして容器に入れて返す。子供にも紙に包んだ飴などお駄賃があった。

当時は大方の家には縁側があり、家に上がり込まず縁側が気安い近所づきあいの場になっていた。「漬物漬かったんだけど どうだかね」暇な時はお茶も入り、おしゃべりも弾む場所だった。

 

御用聞き

その頃の商売のサービスに「御用聞き」があり、酒屋、荒物・雑貨屋などが時々わが家にも来ていた。大抵は自転車に乗ってくる、店の半天を着て注文をとって、後で商品を届けてくれる。普通は「通い帳」に記録して、月末にまとめて支払うのだが、母は現金で払うようにしていたと言っていた。

和菓子の御用聞きは、升目で仕切られた中に一個づつ菓子を入れた浅い木箱を何段か重ね、風呂敷に包んだ見本を持って来た。

箱の蓋を開けると、どれも美味しそうだった。お菓子も後ほど届けてくれた。

その後二三年もすると、甘いお菓子は次第に姿を消して行った。

 

行商

● 魚屋

魚の行商はリヤカーを引いてきた。いつも決まった小母さんが、定期的に家まで来て声をかけてくる。

入れ物を持って、母が出て行くのについて行く。近所のおばさんも来ている。リヤカーに積まれた魚箱にはいろいろな魚が入っていて、買い得や旬、食べ方など話し、まな板の上で手際よく裁くのが旨がった。さっと売り買いが終わり、リヤカーが去っていく。

豆腐や

毎日夕方になると、豆腐屋のおじさんが自転車に箱を積んで売りにくる。「ラッパ」を吹き「とーふ」と短い売り声をかける。

箱の中には豆腐のほか油揚げやこんにゃくも入っている。声を聞いてから鍋を持って買いに走る。

 

● 納豆売り

朝、「なっとー なっと」の売り声で住宅地を歩いて売りに来た。大抵は男の子だった。稲のつとに入ったナットも見たことがあるが、殆どは経木に包まれていていた。

 

講談社の絵本

小学校に入てからは「小学1年生」を定期的に買ってもらった。漫画や絵本は小遣いから自分で選んで買う。小遣いといっても毎月もらえない。正月や祖父母などから貰う内からなので、慎重な選択になる。講談社の絵本シリーズは内容が豊富で、絵も綺麗なので買いたい本が沢山あった。札幌駅の北東に、元村へ通じる斜めの街道があり、街道に面して大きな商店があった。何でもそろった小型百貨店の様な店だ。家から近かったので本を買いに貯めたお金を手にして本選びをした。

1冊5・60銭だった。「講談社」を何冊揃っているかで自慢しあった。友達と絵本の貸し借りも盛んにした。

 

子供の仕事

学校に入る頃から、子供にも出来る家事仕事が次第に増えていった。小学生低学年の頃では次のとおり。

家の前の通りや庭のゴミ拾い、玄関・勝手口の掃き掃除、風呂の水汲み、石炭運び、縁側の拭き掃除、窓ガラス磨き、玄関前の除雪。布団敷き、蚊帳の張り・片付け、お使い、祝日の国旗掲揚、正月の若水汲み、毛糸ほどきの手伝い、水撒き、飯台の出し入れ、 などだ。

今時は見ることもないお手伝いを振り返ってみた。

 

● 石炭運び  一冬に焚く石炭は家に併設の石炭小屋にあり、塊炭は崩しておき、明るい内に専用のバケツで運ぶ。

● 蚊帳  夏になると、蚊よけのため、寝室になる部屋に布団を敷いた後で蚊帳を張る。蚊帳は部屋の広さに応じたサイズがある。家の蚊帳は緑色で補強部分は赤い布がついていた。部屋の鴨居に受け金具をつけ、蚊帳の四隅と中間にある取り付け紐の先の輪を引っ掛けて吊る。吊り始めは珍しさもあり、蚊帳を出たり入ったりして叱られもした。蚊帳の内は風通しもなく余り快適とは言いがたいが、蚊に攻められるよりマシ。蚊帳は嵩があり扱いにくいので朝仕片付けるのに苦労した。

● 国旗掲揚   旗日には各家庭では必ず玄関先に国旗を掲げた。我が家では長男の仕事だった。竹に黒色の段だら帯のある旗竿の先に、金色のガラス玉と日章旗を結びつけて立てた。夕方になる前に旗を降して役目が終わる。

● 若水汲み  正月の早朝、一番に鉄瓶に水を汲み、水は神棚に供えた。家族が水を飲んだかどうか記憶にない。

● 毛糸解き  母は毛糸でセータ、、帽子、手袋、靴下、パンツなど冬衣料の主なものは母が手編みしてくれた。毛糸で編んだ衣類は編みなおして再利用が出来る。古くなった毛糸の服を解くとき、子供の手が糸かせ代わりに活躍する。毛糸球にしたり、湯気通しをするときにも子供が使われる。この毛糸が自分の着るものになるんだと聞けば単調な仕事でも進んで手伝う。

● 飯台 木製の円形の食卓で、朝夕家族全員がそろって食事をする。飯台は脚を折り畳んで部屋の隅に立てかけてある。ご飯時、ころころ回転させて、茶の間の中央に出して準備するのが私の仕事。姉は箸立てや茶碗など並べる。飯台(ちゃぶ台)は食事専用ではなく、勉強、読書などにも使う。時には風邪のとき吸入器をかける台にもなった。

 

市内見て歩き

父には定休日があったので、時々家族と札幌市内の観光ポイントに連れて行ってくれた。

● 北大構内   北大は家からそう遠くない所なので時々行った。広い学内は木と緑の芝生が綺麗だ。池もポプラ並木も子供でも気持ちよく、建物の一つ一つが美しかった。記憶違いかも知れぬが、工学部の建物の前に蒸気機関車があったように思う。

● 真駒内の牧場   当時の私の感覚としては、真駒内は札幌郊外の遠い所で、定山渓鉄道に乗らなければ行けないない所だった。家族と一緒にお昼の弁当を持ち、水筒下げたピクニックだった。広々した牧場には沢山の牛が放し飼いにされていた。

牛舎に寄ったとき、丁度搾乳をしていた小父さんが、牛乳を搾る手ほどきをしてくれ、乳搾りもさせてくれた。搾られたかどうか記憶に無いが、搾りたての牛乳を飲ませてもらった。瓶詰めの牛乳は好きでよく飲むのだが、搾ったばかりの牛乳を牛の前では、飲み物ではなく乳そのもので、気持ち悪いが先立った。

● 荒井山スキー場   北海道の子供は小学校に上がるまでには、家の周りで遊びながら、下手でもスキーに乗れるようになる。父が私と姉を荒井山のゲレンデに連れて行ってくれた。札幌駅前から電車に乗り、乗り換えて円山公園で降りる。今の大倉山小学校の裏の山が市民の荒井山スキー場だった。つづく双子山、なまこ山、にも滑る人が大勢いた。リフトの無い時代、自力で上がり、そして滑る。山すそには店や食堂があった。奥にある三角山の急斜面を大回転するのが遠くから見ることができた。

 

畳の表替え

何年間隔なのか、家の畳や襖を張り替えることがあった。鉄道官舎住まいだったから自己負担では無かったのだろう。

畳職人が作業台になる木枠を肩にかけ、畳茣蓙と道具を持参する。頭部が丸く穴が開いた箸ほどの長さで先のとがった棒針を使って、古畳を作業する外に運び出すと、先が丸く刃が厚い包丁で周りの糸を切り、古い畳表を剥がす。新表を広げるとパット畳の匂いがする。棒針で両端を留め、ヘリに定規を当て包丁でサッツと切り落とす。ヘリに布地と紙をあて、大きな針で厚い畳床を一針づつ縫っていくのだが、手に針当てをして、肘で縫い後を押さえながら縫い進む。職人の仕事ぶりが面白く、時間のたつのも忘れるほどだ。畳表の痛みの手度により、畳表の裏返しをする。またタバコの焼け跡などの修繕も丁寧にしていた。

 

父方の祖父母

父は会津若松の出身で、仙台の高等工業学校卒業後、国鉄に就職し渡道した。実家は飾り職の職人であったらしい。

詳しいことは聞いたことが無かったか、聞いたが忘れてしまった。思い出せるのは、会津の祖父から時々小包が送られてきたことだ。絵蝋燭、塗り物、桐の下駄、竹籠に入ったマツタケ、玩具では白虎隊の木製の刀、翁飴などだ。

父の実家へ学齢前に、2度家族で訪れたことがある。何枚か写真が残っているが、訪問時のことは憶えていない。

年金制度のない当時のこと、息子が親の生活を看ることは当然のことだった。毎月仕送りをしていたが、祖父母が高齢にもなったので、札幌に呼び寄せて同居するように促した。話が出てから大分経過し後、祖父母は一大決心をして住み慣れた故郷を離れて、渡道・同居を決断した。同じ年の祖父母が67歳、父が35歳の時で、私は小学校1年生だった。仕事も家財道具も全て整理して、身の回りの僅かな荷だけの渡道だった。鉄道官舎は狭いく、部屋数も少なかったので、座敷が祖父母の私室になった。何ヵ月かを経て、祖父母は理由を見つけて会津に出かけて行った。そして、何かにと理由をつけて戻る気配が無かった。父が迎えに行って、ようやく札幌に戻ってきた。私が当時の祖父母の年齢を一回りも超える年齢に達し、彼らの苦悩を察すると真に辛い。その後、戦争と戦後の辛い苦悩の時期がすぐに訪れたのだ。

数少ない携行の荷の中に自作の品があった。彫刻のある銅製の薬缶と湯零し、銀製の銚子と杯、煙草入れの飾り金具、金・銀で梅と鶯を彫刻した立派なキセル、蛇がぐるぐる巻いた指輪などだ。いつも着物姿で粋ななりをしていた。

 

創成川

年の瀬には狸小路突き当たり創成川西側に年の市が立ち、門松、〆飾り、繭玉などを買い求める人で大賑わいだった。

正月飾りを一式買って、鉄北の我が家まで創成川に沿って、徒歩で持ち帰るのは大事だった。帰ったら直ぐ飾りつけを手伝う、正月を迎えるわくわくとした気持ちがあった。

「札幌まつり」にも親姉弟に連れ立って神社参拝やお神輿行列を見に出かけるが、帰りには、露天の店と見世物小屋が並ぶ創成川ぶちに行った。これが祭りの最大の楽しみだった。大サーカスは正面入り口の上部に演目の絵がズラリ張ってある。楽隊がジンタを奏で、誘いの呼び声で一層わくわくし、メイクをした少女が出入りする。大きな期待と共にサーカス入る。テントの中は客で一杯だ、客は茣蓙に座って見物しているが、サーカス小屋は川の上に落葉丸太を縄で組んだ仮設なので、床の隙間から、川の流れが見えた。

 

特別な食べ物

小学生低学年の頃はまだ食料の統制がゆるく、特に不自由ではなかった。

季節、旬、祭事、行事、祝・不祝儀などの日は、日常の食事とは差があり、ご馳走があった。バナナは遠足、運動会で食べるもの。卵は貴重なもので、病気見舞いに使われた。卵焼きは上等な食べ物だった。冷凍も保冷も自家で行うなど考えもしない時代は、旬の魚、その季節だけの野菜・果物は様々な工夫を重て飽きることなしに食べていた。

正月には、雑煮、汁粉、あべかわと、日ごとに変わる。正月料理もきちんと定番があり、家代々守られてきた。子供の楽しみは年越しのご馳走だ。特に「口取り」は餡の鯛をはじめ菓子や干し柿などが皿に盛られて出る。自分だけのものでいつでも好きなときに食べられるのだ。「札幌まつり」では赤飯、焼いた「とき知らず」、煮しめが定番だった。

特別の日の特別な料理や食べ物は、大人も子供も大ご馳走を食べたと心から思っていた。

現在があまり恵まれすぎのためご馳走の喜びが薄れている。これは喜ばしいことなのか。

 

馬車、馬橇

荷物運搬の主役は馬だった。運搬ばかりでなく、農家さんは現在の乗用車のように家族の乗り物としても使っていた。また、作業の動力として今の重機の如く利用されていた。重要な交通手段なので、街の通りには、多くの馬車が行き交っていた。大きな倉庫前には多くの荷馬車が繋がれていた。馬が市内でも運搬の主役であったので、様々なシーンが思い出せる。重量荷物には二頭立ての馬車、鉄鎖で繋げたバチ橇で太く長い丸太を運搬する馬橇、し尿汲み取りの馬車・馬橇、大きなマグロを運ぶ荷馬車、正月に初荷で若者がガンガンを叩きながら威勢のよい掛け声で走る馬橇、漬物時期に大根を山盛り積んだ荷馬、冬前の石炭馬車・・・様々だ。

子供の憧れは荷馬車や馬橇に乗せてもらうことだ。仕事中では乗せてもらえるはずもない。そこで、馬車追い(御者)の目をかすめ、サッと只乗りをする。咎められて怒鳴られることもあるが、大目に見てくれるおじさんに会うこともある。そんな時は降り際に帽子を撮ってお礼をした。冬スキーをしての帰り道に馬橇が通ればラッキーだ。ストックを荷台に引っ掛けるとスキーは漕がずにスイスイ滑る。面白いうえ楽チンしながら帰ることが出来る。只この滑りにも多少の危険がある。それは馬糞だ。たれ放題の馬糞の餌は稲わらとか燕麦などの雑穀なので、その上は全く滑らない。そこを避けて通らないと急ブレーキが掛かるのだ。冬中に道路に落ちた馬糞はやがて春風に煽られ、札幌名物「馬糞風」となり、悩ましい一時を迎えることと成る。

 

路面電車

当時の札幌の人口は少なく、市街地も狭い範囲だったので、路面電車で十分だったのだろう。

私は鉄北に住んでいたため、市電の路線から離れていたこともあり、札幌駅、丸井さん(丸井今井百貨店の愛称)へも歩いていった。余程の遠方に出かけるとき以外は、電車に乗ることはなかった。そのため、稀に電車に乗る時は嬉しかった。

市電には制服の運転手と車掌が乗務している。電車の運転手は年少の子供の憧れであり、運転の仕方を飽きずに眺めた。制御盤をハンドルで切り替え、大きな金輪を回し、足元にはチンチンと警報を鳴らして運転をしていたと思う。車掌さんは、ベルトのあたりにがま口のような黒鞄をつけ、車内で切符を売る。行き先に応じ鋏を入れ、運賃の精算をする。その間も停留所の案内をしたり、窓上に張ってある紐を鋏で振り信号を送る。車掌さんの仕事ぶりが面白かった。

小さな子供もチンチンゴーゴーが好きで、切符、鋏の玩具を使って電車遊びをしていた。

降雪期には市内にも大量の雪が降り積もるが、大型除雪機の無かった当時、中心地の主要道路の除雪をどう処理していたのか記憶に無いが、路面電車は当時も電車の前に取り付けたササラで除雪していた。

市電の路線はその後,大幅に廃線となった。緑色の電車、分岐点にある信号塔、終点駅でポールの架け替えでスパークする光など、あの頃の電車のいる街の風景画が懐かしい。

 

冬の朝

当時の北海道は寒冷地でありながら、どの住宅でも防寒対策は十分でなかった。防寒建材は皆無、壁はあっても、縁側・窓は薄い板張り、板ガラス1枚だ。薄い天井板、夏は涼しくても冬の寒さには厳しい住居である。朝起きると布団の襟が凍ることさえある。厳冬期には気温により、臨時休校になることがあった。

だが、寒い朝の楽しみといえば、縁側の戸の板ガラスに霜がつくので指で絵を描いたり、息を吹きかけて溶かして遊ぶこと。もう一つは各自の専用の湯たんぽで洗顔が出来ることだ。

 

年末年始の家庭行事

正月はわが家にとっても最大の大切な行事である。

12月20日が過ぎると、家のすす払い、大掃除、障子張替え、煙筒掃除をする。

12月28日までに餅つきをする。職場の同僚、近所の者達が援助することもある。また、賃餅屋へ予約するか出前の餅つ屋やへ頼む。つく餅も色々だ。お供え、伸し餅、豆餅、草餅、あんこ餅など。餅は一月いっぱい食べるので多量になる。 主に、雑煮、あべかわ、磯部巻きである。餅も続くと飽きてしまうが、最後に鏡餅は鏡開きと称し、切り割りしカビを除けて水餅にして食べる。

正月準備として、正月飾りは、玄関の両側に松の枝 昆布、みかん,ゆずり葉、御幣をつけた門松、玄関の上に幅いっぱいに注連縄を張り御幣、松、を挿む、台所、風呂、便所などには輪飾りをかける。居間には餅球、縁起物を付けた繭玉を飾る。

大晦日は年取りだ。夕方に神棚を清め、榊、お神酒、米、灯明をともし、仏壇に供え物をして、家族一同参拝する。

夕食は一年の最高の料理が出され、一年の無事を祝う。正月料理として定番の献立、煮しめ、数の子、黒豆、きんとん、すもの、きんぴら、旨煮、鮭の鮨 口取りである。子供にとっての一番の楽しみは口取りだ。

1月1日には衣服を改め、若水汲み、神社参り、家族の新年挨拶、屠蘇と雑煮、正月料理を食す。元日から金銭を出さない、箒は持たない。我が家の雑煮は切り餅、醤油味、三つ葉、里芋、蒲鉾、鶏肉である。

正月遊び  子供はカルタ、すごろく、福笑い。青年は百人一首だ、1月中家々を回り競い合う。大人は花札、年寄りは宝引き。

1月2日の朝は餅入り汁粉、お年玉を貰う。挨拶回り、書初め、掃き初め、買い始め。

街中で繰り広げられる正月初売りの風景は、真新しい印半纏を着た馬車追いたちが、お神酒を飲んだ一杯機嫌で、石油缶や樽を叩きながら、沢山の初荷旗を立てた積荷の馬橇を連ね配達している姿が見られた。商店では買い物客には暦、手ぬぐい、などの景品を贈る慣わしがあった。

1月3日の朝はきなこ餅だ。 みかんの小箱が新年挨拶でよく使われた。

1月7日は七草かゆを食べる。

1月15日は女の正月、どんど焼き。 

1月16日は薮入りと、世間の決まりごととなっていた。

よその家もおおよそ上記に準じていたと思うが、ご先祖の渡道する以前の故郷の仕来りや食文化により異なることは十分考えられる。

 

衣替え

札幌祭り(現在の北海道神宮例祭)の頃になると、札幌は初夏の始まりに当たる。街の人たちは夏服に切り替えた。

衣替えはアカシヤの花とともに、北国札幌の風物詩ともいえる。

小学生の男子は学生帽に白いカバーを掛け、黒か紺色の学生服には白襟を付けるかグレーの学生服へ変わる。小学生の女子も夏らしい服装になる。中学生は灰色の詰襟服。一際目立つのが女学生の夏服である。当時はセーラー服が最も一般的だったが、黒か紺の冬服から、白い上着に変わる。学校により半袖もあったと思う。ついでに書くと、女学生の髪型だが、学年により髪型が変わるので、何年生か見ただけで分かる。おかっぱ、長髪にして分ける、後ろで束ねる、長編にするなどであった。

 

子供の頃のお菓子

戦争の前後の昭和14年から17年頃まだお菓子や果物がお店で沢山売っていた時期の子供のおやつを思い出してみた。

学校から帰ると先ず「お菓子頂戴」だ。主に駄菓子だったが時には自家製の菓子もあり、蒸かしいもの時もあった。

家の近くに菓子店があり、母の買い物について行くこともあった。店内は低い平台に箱型のガラスケースが広がりいろいろの菓子が入っていた。奥のガラスケースや棚にはガラス製の丸型、や角型の容器に色取り取りの飴類が置かれていた。当時駄菓子は量り売りであり、菓子は裸のままケースに入っている、味見をさせ、客の注文に応じアルミ製のスコップで紙袋に入れ計量する。

和菓子の老舗で記憶に残る店がある。店に入り口に暖簾があり、入ると店内の奥が少し高く畳敷で、低いショウーケース内には菓子皿に見本の和菓子が置かれている。店の奥との境に長い暖簾があり、小さな生け花などもあって店内は和の雰囲気に満ちている。客の注文に応じ後ろの棚の引き出しこから和菓子を取り出し、箱詰めをする。腰を下ろして待つ時間もいい。この様な老舗は見本を背負った御用聞きがいて得意先を回っていた。

どんなお菓子や果物などが食べられていたのか。

 

駄菓子系

あられ、おこし、かきもち、カステラ(棒状に包装)、かりんとう、カルミン、カルメラ、きなこねじ、谷田のきびだんご、

金華糖(三角形薄荷糖)、クリームサンド、ジムカケ、ショウガせんべい、南部煎餅、ゴマ煎餅、

動物ヨーチ、ポーロー、ポン菓子(げんこつ)、マコロン、ヨーチ。

 

飴系

飴玉、エンゼル(乳菓)、翁あめ、グリコ、ゼリービンズ、大甞飴、津軽わっぱ飴(みやげ)、十勝飴、石炭飴、ドロップス(新高・サクマ)ヌガー、フルヤウインターキャラメル(冬季限定)、フルヤミルクキャラメル、べっこう飴、たんきり飴、マーブル(変り玉)

明治クリームキャラメル、森永ミルクキャラメル。

洋菓子系

クリームサンド、シュークリーム、玉チョコ、ドーナッツ、ビスケット、明治ミルクチョコレート(板チョコ)、洋生(総称)

和菓子系

あんこ玉、祝い盛菓子、うすあま、求肥、きんつば、串団子、金平糖、団子、中華饅頭、どらやき、ねりきり、饅頭、

最中、もろこし、羊羹、らくがん。

季節系

アイスキャンデー、アイスクリン、氷水、白玉、ラムネ、餡もち、豆もち、甘酒、鶯もち、桜餅、椿もち、柏もち、ちまき。

自家製系

おはぎ・ぼたもち、お焼き、かりんとう、くずかき、そばがき、大学いも、いもだんご、麹の甘酒、板粕の甘酒、ホットケーキ、蒸しパン。

自然系

グスベリ、夏みかん、あじうり、西瓜、トマト、栗、こくわ、山ぶどう、りんご(6号、49号、旭)、とうきび、さつまいも、カントマメ(落花生)、干しいも、干し柿、干しバナナ、酢昆布、するめ、のしイカ、干鱈、ミガキ鰊、黒砂糖、コーセン、ニッキ、バイン缶、みかん缶。

その他 

いちご餅(札幌駅)、柳もち(札幌駅)、レンガ餅(野幌駅)など、駅の名物菓子。

 

供の頃年 寄りから聞いた言葉

柄杓の外側へ水を空けるな(外柄杓という)

水にお湯をさす

座敷を二人で掃くな

口答えするな

ハイの返事は一度

夜中に口笛を吹くな

夕方遅くまで外遊びすると人攫いにさらわれる

箸は正しいもち方をせよ

一本箸はするな

一杯飯は食うな、てんこ盛りにはするな

菜うつりをするな

食べ物を箸渡しするな (集骨のときだけだ)

みそ汁をかけたり、茶をかけて飯を食うのは行儀が悪い

がつがつ食うと「餓鬼道が夜通し駆けて来たようなことをすんな」

茶碗を叩くと餓鬼がくる

炊いたご飯は一旦お櫃にとってからよそう

茶碗に飯をよそう時は一盛りで終わらせるな

ご飯を食べて直ぐ寝ると牛になる

冬至にかぼちゃを食べると中風にならない

寄生虫が居るから鮭は生で食べるな

初物を食べると75日寿命が延びる

初物を食べるときは東を向いてハハハと笑って食べる

肘を付いたままで食事をするな

うなぎと梅干は食い合わせする

ご飯をきれいに食べないと目がつぶれる

元旦からか金銭を出さない (元日は始まりの日,この日出金すると年中出金につながる)

12月29日は餅つきはしない (苦が付くのを避ける)

お年玉は年長者から下の者へ渡すもの

元日は掃除をしない (福を掃きださない)

ドンド焼きの煙を頭に擦り付けると頭が良くなる

豆まきのときは自分の年の数だけ拾い食べる

雛人形はひな祭後片付けが遅れると嫁入りが遅れる

足袋を履いて寝ると親の死に目に遭えない

(真新しくても)履物を家から履いたまま外へ出るな (いいのは葬式のときだけだ)

夜爪を切ると親と別れる

葬式や霊柩車に出会ったら親指を隠せ

便所には物を捨てるな

ミミズに小便かけるとチンチンが腫れる

毒草に触れたときはその手を他人に叩いてもらえ

癲癇の屁を掛けられると癲癇になる

どもりのまねをしているとドモリ(吃音)になる。