にわとり

父が前触れも無く鶏を分けて貰ってきたと言う。家中が驚いて見ると、4羽の鶏がリンゴ箱に入っていた。

まだ大人になる前の鶏で、オス1羽メス3羽だった。急遽家屋の外壁面に指し掛けの小屋を大騒ぎして作った。

材料揃えから、入り口、窓、棚や止まり木まで作るのに3日かかり、漸く鶏小屋が完成した。

鶏を飼えば、卵が毎日食べられると安易な考えだったが、実は鶏を飼う方法は知らないのだ。私が国民学校の頃、祭りの露店でヒヨコを買ってきて育てたくらいだ。生き物なのだから、餌もいるし糞の始末もしなければならない。父はざっと飼い方を聞いてきたのだが、毎日の世話はしない。世話人は母が主役で私が脇役となってしまった。我流で残飯や雑穀で飼っていがのだが、そのうちにどうやら産卵するようになった。卵は嬉しいのだが、小屋掃除がいやだった。臭いし、雄鶏が怖かったからだ。産卵するようになって、何月も経たぬうちに市内の借り上げ住宅へ転居することになり、鶏飼いは中止となった。鶏をどうするか、家族で相談したがなかなか結論が出なかったが、結局〆てカシワにすることになった。誰がするか。

結局鶏を持ってきた父が責任を取ることになり、また大騒動の末どうにか食材にしたのであった。

 

イカの町

函館の住宅街では朝早く「いが いが」の声が聞こえてくる。リヤカーを引いたおばさんが取りたてのイカを売りにくる。

イカの刺身で朝ごはんとは、札幌から転居してきた者にとって朝から山盛りの刺身はご馳走だった。

敗戦で北洋漁業を失った函館は大打撃だったが、沿岸のイカ漁が助けとなった。従事する漁業者も需要も追い風になったのだろう。海岸町にあった家の裏側には広いスルメ干し場があり、風に乗ってくる匂いが家の中まで入ってきていた。

よく聞く「猫またぎ」は本当だった。

 

初めての函館観光

転校して暫くは慣れない期間があり落ち着けない。戦後5年経った頃では観光とは程遠い時代である。新たな住処となった函館だが、一人で街中を歩き回ることも面白いが、いつも眺めている、函館山に登ってみた。遠くから見る感じより山が広く、要塞の跡は興味深かった。よく作ったなと思う反面これが要塞なのとも。国民学校のときの地図には白く抜けていて軍事上の秘密だった、どんな要塞なのか想像していたが、大分違っていた。

街中から見える函館山の裏側を見た時は感激だった。津軽海峡が見渡せ、崖の下に家が見えた。もう少し先の方に行ってみると下方には多くの漁船が繋がった港が見えた。

また別の日には現在観光の経路になっている麓の道を見て回った。古くから開けた函館を建物が教えてくれた。

帰りは十字街に向かったのだが、街の中心が十字街と駅前と競い合っていた頃だ。丸井デパート周辺にも老舗がおおく見ることが出来た。

 

大根の荷馬車

昔は何処の家でも越冬用の漬物をいろいろ漬けていた。ざっと思い出すだけでも、沢庵付け、鰊漬け、白菜漬け、聖護院株漬け、べったら漬け、魚のいずしなど様々あった。家族も多かったので着ける量も多かった。汁と漬物があれば飯のおかずは無くても良かった。

紅葉が色づくころになると、どの家でも大根干しをする。洗って縄ですだれ状に干すのもあれば、何本かを束ねて干すのもあり、秋の風物詩であった。

家の前の道は函館郊外の野菜供給地である亀田方面に繋がる通りであった。漬物時期になると、大根や白菜などを山積みした馬車が引っ切り無しに通り過ぎる。農家にはそれぞれ何年もつづく得意先があるという。昔は下肥を町の家から得ていた繋がりもあったからだ。帰りの空荷馬車も列になって通っていった。

 

夏のバイト

町外れで乳飲料とアイスクリームなどを製造する町工場でアルバイトをした。

機械化されていなく、手作業で製造する時代だったので、暑い時期は人手が要ることになる。仕事は瓶詰されたコーヒー牛乳とかジュースの箱入を受取って1本筒づつ取り出し、足踏みの打栓機で王冠を締める作業だ。左手で王冠を打栓機の取り付け口に1個はめ、右手で瓶を所定の位置に置く、直ちに右足でペダルを踏み、瓶を別の箱に入れる。単純な作業だが、油断すると位置ずれし、瓶が破損して下手すると怪我をすることになる。カップに入ったアイスクリームの蓋をして、冷凍庫に入れる作業もした。製品は幾らでも食べたり呑んだり出来るのだが、喜んだのは始めだけだった。寒い場所のアイスクリームは魅力がない。

 

本物のジャズ

目まぐるしいほど変化の激しい音楽の世界では、70年前の楽曲を探すのは骨董品を探す様なものだ。大ヒットの曲ならまだしも、そこそこの曲を現時点で入手するのは至難の業だと思っていた。音楽配信、ミージュックストアなどが急に普及して様子が変わってしまった。唱歌の他は軍歌や戦時高揚の唄だけの時代を経て、中学生で終戦を迎え、進駐軍と共に入ってきた欧米の軽音楽を聴くのは貧しい生活の中にあっては掛替えのない贅沢であった。

60年ほど前、私が高校生の頃、映画とラジオが大衆の娯楽の元だった。ラジオも一家に一台で茶の間で家族が一緒に聞いた時代だった。軽音楽はアメリカン・ポピュラーソングが主流だがハワイアンもタンゴもシャンソン、南米音楽も皆ひっくるめてジャズと言っていた。

そんな時代にNHK(当時は日本放送教会といっていたのかも知れない)の放送で「スイング・クラブ」という番組があり、夜7時から「At the Jazz Band Ball」をオープニングミュージックで河野隆次さんが「本物のジャズとは」の解説とレコードの名演奏を聞かせるものがあった。ディキシーやスイングジャズが中心でした。

一台しかないラジオ、しかも家族全員で聴くには適しないものでしたが出来るだけ聞かせてもらった。

 

函館の風習

函館に住むようになって、言葉の他に、北海道の中央部と少し違うなと思うことが幾つかあった。

その一つが、七夕のだ。道央は8月にするが、函館では7月に行う。

「今年しゃ 豊年 七夕祭り おーいや いやよ ローソク 出せ 出せーよ 出さないと くっつくぞ おまけに かっちゃくぞ」七夕歌は道内でも地域により多少異なるが、私は子供の頃は脅迫調の七夕歌を歌い、家々をまわった。

異なることの二つ目、お盆は道央で8月だが、函館は7月に行う。昔、函館の八幡宮の例祭が8月15日と重なることから関係者で協議の上繰り上げたとの話を聞いた。

異なることの三つ目、現在道内では通夜、葬儀、火葬の順が一般的だが、函館は火葬、通夜、葬式が一般的なようだ。

我が家が昭和24年に札幌から函館に転居後、同居の祖母が亡くなったのだが、道央方式により火葬は葬式の後にした。葬儀は自宅で執り行ったが、敗戦翌年の困窮時に亡くなった祖父の葬儀とは格段と上の葬儀がきできた。当時の函館は座棺が普通らしく、入棺の際は膝を折り曲げるのを見ていて痛そうに思った。その後、洞爺丸台風があって多数の遭難死者の火葬をしたことがあり、葬儀前の火葬が一般化されたのではないかという。

地元の住民はこれらが当たり前のことで、特異なこととは感じないのだから、他所から来たものがとやかく言うべきことではない。

 

レコード

レコード店でアメリカのジャズやポピュラーミュージックのレコードが売られるようになった。

歌謡曲のレコードでは終戦の翌年にすでに「リンゴの唄」が発売されたが、洋楽系は5年ほど間があった。

函館駅前の棒二デパートの中に洋画の映画館があり、時々見に行った。その映画館から階段を降りるとレコード売り場があり、いつも立ち寄った。レコードを買うことは当時の高校生には贅沢だった。小遣いの中から買うにはどれを選ぶか一苦労ものだった。

とうとうある日、前もって決めておいたレコードを買った。自分で始めて買った思い出のレコードは、ベニー・グッドマンの「レッツ・ダンス」、「グッド・バイ」のカップリングの一枚だ。一枚のレコードを何度も聞き、スイングジャズの虜になった。翌月も「明るい表通りで」、「いつかどこかで」を買った。それから「ジャズの歴史」シリーズを何度かに分けて入手した。当時のレコードは落とすと割れる78回転のSP盤で、ラベルが見える丸い穴の開いた紙袋に入っただけで、包装パッケージも無かった。それでも曲の解説が一枚はいっていた。

その後、LP盤、EP盤の時代を経てCDへと進化して行ったが、今では、ダウンロードで楽曲を買い、携帯プレーヤーで外出先でも聞くことが出来る。音楽動画も見られる時代になった。

青春時代の遥か昔の音楽が一番好きで、配信ショップなどで探し求めた曲に出会った時は堪らなく嬉しいものだ。

 

ケーソンの進水

転居先の函館の家は函館駅から近い海岸町にあった。港の岸壁にも近いので時々海の景色を見に出かけた。

港湾の整備事業が漸く始まった頃だと思う。ケーソンを作る所があって何度も通って建造過程をみることが出来た。

私の見たケーソンは、鉄筋コンクリート製の上が開いた巨大な箱で、防波堤か岸壁工事に使われるものだったのだろう。

陸上に造船のドックのような作業壁があり、台の上に鉄筋を組み、外枠を張った中にコンクリートを流し込む。少しずつ競りあがって、何日かすると下から見上げるほどの高さになる。陸上の作業が終わると、ケーソンは工事現場に移すために海に下ろさなければならない。

進水作業は圧巻だ。重量のある巨大なコンクリートの函の進水は、船の進水に似ている。滑り台にワックスが分厚く塗られ、ケーソンが乗っている台の楔を一斉に落とすと巨体が滑り出す、加速が付き海に落ちる、海水が押しとめ大きな白い波が立つ。そして、重い巨体がポカッと浮く姿は信じられないほど見事だ。暫く後に船で曳航されて視界から消えていった。

最近、函館の港を見る機会があったが、当時の様子とは全く異なり、昔の面影は少しも無かった。

 

雑誌

終戦直後の混乱時期には紙・印刷・内容も低俗な雑誌が露天などでも売られ、活字に飢えていた人々が買っていたが、戦後5年ともなって、次第にいい本や雑誌が出回ってきた。

当時の雑誌で購読していたり、思い出すものを揚げてみた。

「週刊朝日」 一番人気の週刊誌だった。連載「新・平家物語」。文春、新潮の週刊誌は未だ無かった。

「主婦と生活」 我が家で購読。生活術、健康、食事など中心の家庭雑誌。家計簿を記帳で生活の計画化に役立った。

「映画の友」 淀川長治さん編集、写真、イラスト、読者倶楽部などが楽しかった。

「リーダーズ・ダイジェスト」 米国の文化、科学、家庭、歴史、美術等幅広く、コンパクトに紹介されていた。

「蛍雪時代」 私の購読していた受験雑誌、旺文社、赤尾好夫編集長。豆単英語など付録が良かった。

「ひまわり」 中原淳一編集の少女向け雑誌。同級の女子に愛読者がいて、髪型をいろいろ変えて登校してきた。

「夫婦生活」 男の兄弟が小・中・高生4人いる近所の家に遊びに行った時、居間に何冊も置いてあった。

 

連絡船

道産子は本州のことを「内地」と言っていた。私は子供の頃から、青函連絡船に乗ることは北海道と別れ、遠い内地へ旅立つこととの感覚だった。

函館駅出札から下船する米のかつぎ屋や商売人が海峡をまたぎ働いている人が沢山いるのを見て、遠くに思っていた「内地」に対するイメージが変わってしまった。列車をおり連絡線に乗船する客が、重い荷物を抱えながらでも懸命に長いホームを駆ける様は真剣そのものだった。

東京の私大の受験する学友を見送りにいった。銅鑼の音につづく「蛍の光」が何時までも耳に残った。

連絡船は希望の船出と感じるか別れの船出と感じるか、様々な人間模様を連想させてくれる。