ヲからオに

私の名前は貞夫、フリガナで書くときはサダオと今ではそれが当たり前のことで何の抵抗もない。

尋常小学校入学前に姓名と十までの数を親から教わった。その時は「サダヲ」であった。そして国民学校でも中学校でも変えることなくつづいた。しかし、いつの間にか「サダオ」とかくようになっていた。いつからなのだろうと考えてみた、そして「オ」から「ヲ」と書くのに多少躊躇いがあった記憶があったことを思い出した。

尋常小学校の教室に五十音のカタカナ文字の表が貼られていて、「ヰ、ヱ、ヲ」も存在していた。「ヰ」はヰますのヰ、「ヱ」はカギのあるヱ、「ヲ」はヲわりのヲと習った。

音は古からの言葉により書き言葉が決まっているので、正しく書くのは難しいことでよく間違えることがあった。

正月に遊ぶいろはカルタで家にあったものを見てみた。ヰは「ゐもの 煮えたの ごぞんじないか」、イは「いぬも あるけば ぼうにあたる」。ヱは「ゑんは いなもの」、エは「えてに ほをあげ」。ヲは「をいては こに したがへ」、オは「おにに かなぼう」となっている。

ネットで調べてみた。奈良・平安時代では同音でなく、少し発音がことなっていたのが時代の変遷をへて同音となっていった。明治6年、歴史的仮名遣いが「小学教科書」採用された。私達が受けた国語教育はこの時期の仮名遣いだった。

そして、昭和21年に「現代仮名づかい」が交付されて、「ヰ、エ、ヲ」は「イ、エ、オ」に統一された。但し助詞の「ヲ

は存続した。さらにその後、緩められたが、社会的には現代仮名遣いが標準と成っているという。固有名詞には旧カナ文字

が個性的で存在感のある社名やブランドに生きている。例えば「マルヰさん」「ヱビスビール」「ウヰスキー」「アヲハタ」

また、「ゑ」のつく言葉の一例で、こゑ、こずゑ、つゑ、ゑがく、など現代をはなれたノスタルジックな味わいも感じられるのである。

親からもらった名「サダヲ」を「サダオ」と気に掛けながら書き換えたのは昭和23年、高校生になった頃だったと想われる。

 

通学路

転校先の道立札幌二校は北8条東5丁目の自宅から3.5キロの距離にあった。当時は徒歩が当たり前の距離だ。通学路は北大の構内を横切り、植物園の北から市電通りにでるのが朝の通学路だった。戦後の深刻さも少しずつ和らぎを感じさせる時期になった札幌の街は、やはり都会の面影があり、町並みを見るのも通学の楽しみの一つだった。

毎日通る北大では、文化的な催事が時々行われていて、時々楽しませてもらった。ある夜、演劇を見る機会にめぐり合った。

初めて楽しんだ本格的な演劇だった。パニョルの代表作「ファニー」、仏国マルセイユを背景に笑いと涙の人間模様だ。(その後、レスリー・キャロン主演によりハリウッドで映画化された)

「恵迪寮」祭だったのか、寮を一般公開したとき見に行った。予科生のバンカラな姿は良く見かけるので予想はしていったが、入り口を入って直ぐ驚いてしまった。廊下も部屋も張り紙、落書きが一杯。難しそうな本と様々ぶら下がっているモノ。若者の力、自由、バンカラ、おおらかさ ロマンなどが充満していた。

高校2年生は札幌の戦後の変化の時期と重なり、思いで多い一年間だった。だが、高校3年生には函館の高校に転校することになる。映画館

映画は大衆娯楽の最たるものだった。市内中心部には映画館が沢山あったが、その後も続々建てられた。

ハリウッド映画はどの映画館も盛況で、正月などは廊下まで一杯になり、入れ替えの時でどうにか中に入はいる。中も満員で壁際は無論のこと通路までびっしりと詰まっている。腰掛て見たければ、また次の入れ替えまで辛抱しなけらばならなかった。

狸小路3丁目の遊楽館で、チャップリンの「黄金協時代」を見た。すすきの3丁目の美満寿館で見た英国エリザベス女王の挙式の記録映画は始めてみた天然色映画だった。家から一番近いのが北3条苗穂行き電車通りのエンゼル館で、ここにもよく行った。

その後はハリウッド映画が見られる時代になっていった。

 

デパート再生へ

戦後の様々な占領施策と、商品不足などで縮小営業をしていた丸井と三越のデパートが動き出した。

丸井では売り場面積も広がり、客の出入りも多くなっていった。屋上でモデル嬢の写真撮影会を催した。カメラは限られた人の持つものだった時代だが、大勢がカメラを持って集まった。むろんカメラの持たない男性も詰め掛けたので、通路は身動きがままならぬ状況だった。

少したって、上層階にニュース専門の映画館が開設され、国内外各社のニュース・漫画などが上映されたので、帰校時に寄り道をして見に行った。

進駐軍に接収されていた三越も接収解除となり、元に戻り営業を再開。現在の建物の以前の逆L字型の建物だ。駅前通り側に平屋の簡易建物を作り、生鮮食材を中心にした市場スタイルの店がオープンして相当の賑わいがあった。

従来デパートに野菜、鮮魚、惣菜などの売り場があったのか、思い出せないが、デパ地下の走りをみただったのかも知れない。

 

駐屯基地の見物

真駒内に進駐軍の基地ができて、施設・装備がすごいという話がよく話題になった。どのような物なのか一度見たいと思ったが、市民が勝手に中を見られる筈もない。その後、基地内で清掃と庭の手入れをする日雇いがあることを知った。指定の日時に集合場所に行くと20人くらいの大人が集まった。迎えのトラックで真駒内の基地に入った。広い基地内は想像以上に規模が大きく、兵舎や格納庫が建っていた。下車すると仕事の手順と場所を教えられ、行った先は白い住宅の広い芝生に生えている雑草とりの仕事だった。単純な仕事だったが長い一日だった。一応基地の内側を見物でき、賃金も貰えて満足なのだが、5年前まで戦争をした相手の兵隊のために労働することに多少の惨めさも感じた。

 

ラジオ放送

「フジヤマの飛び魚」の快挙に日本中がラジオに耳を傾けた、失いかけた日本人のやる気をかき立ててくれた。

ラジオが次第に一層楽しい内容になっていった。アメリカからの音楽の放送に日本のバンド出演も増えてきた。ジャズ、ポピュラー、ハワイアン、カントリーの区分も無くすべてがジャズと読んでいた時代だ。ビック・バンドもコンボも次々に誕生し、シンガーも多くなった。スターダスターズ、ブルーコーツのバンドとシンガーではナンシー・梅木、笈田敏夫が特に好きだった。

昭和27年にHBCがラジオ放送開始する3年前、私が高校2年生の時、中島公園内にあったNHK札幌放送局からのローカル放送でリスナー参加のクイズ番組があった。スタジオに行ってみたが、狭いスタジオに30人位入り立ったまま、注意事項が一通り終わると特別のリハーサルも無く生放送が始まった。司会進行は北出清五郎アナでなかったかと思う。クイズの答えを求められ指名され、マイクの前に進み回答した。正解だったが賞品があったのか記憶に無い、何も無かったのかも知れない。

 

ニュー・スタイル

世の中が明るく活気が出てきた。待ち行く人の服装からも感じられる。

女性が自分の服装に関心が高まり、洋服を自分で作るのが流行し始め、洋裁学校が彼方此方に出来てきた。

我が家の近くにもドレスメーカーの学校があった。丈が短め、裾が広がったトッパーと呼ばれるコートが流行った。肩にパットをいれるのも大流行だった。

男性もリーゼントスタイルの髪型が流行りポマードでキッチリサイドを固めていた。アメリカ映画や歌謡曲「憧れのハワイ航路」の影響かアロハシャッツを若者が着るようになった。

 

下山さん

下山国鉄総裁の轢死が報じられ、折からの世相の中、自殺・他殺の両論対立のまま経過した。

当然我が家でも話題になり、追悼の念とともに、下山さんを思い出していた。

子供の頃、私が母から聞いた話と祖父の話、写真などと一部推察を加えると次の様になる。

祖父が下山さんと20年ぶりに再会したのは、事件発生の前年、政務次官在任中に鉄道の視察のため来道した際、岩見沢機関区を訪れた時だった。挨拶をした祖父を次官は憶えていて、当時の頃の話を交わし、最後に娘さんは元気かと尋ねた。当時とは、下山さんが運輸省入局後、鉄道局技師の頃(昭和3年か4年)小樽築港機関区に勤務したことがあり、祖父(当時45歳)も同じ職場にいた。下山さの話の最後に出てきた「娘さん」とは私の母のことだ。母から聞いた話では、住んでいた鉄道官舎のすぐ近所に新婚ほやほやの下山さんが住んでいて親しくお付き合いさせてもらったという。下山さんが東大の工学部に在学中に写した角帽・学生服姿の写真をいただいた。母はその頃、同じ機関区勤務の鉄道員の父と婚約中だったので、下山さんが記憶していたのかも知れない。

 

弟は学校給食

小学生の身体の発育低下が栄養の低下によることから、小学生だった弟たちは学校給食が始まった。初期段階は家から持参する昼食の栄養の底上げとして、汁物や脱脂粉乳が給されたという。その後は次第にコッペパン、シチュー、ポタージュ、鯨のベーコン、魚肉ソーセージなどが出されるようになり、給食回数も増えていったらしい。初期の頃の給食は余り子供の口にあわなかったのか、脱脂粉乳とかコッペパンは美味しくなかったと懐古する。私たち昭和一桁生まれの者は、育ち盛りが食糧難の時期と重なり、それ以下だったが、一度も学校給食の恩恵を受けずじまいだった。最近の学校給食をテレビなどで見ると、なんと恵まれた時代になったものだと思ってしまう。

 

明るい兆し

高校2年生の頃、社会生活が少しずつ明るい方向に動き出した。4月から9月までの間、初めての試みとして夏時間になった。巷の人は「サンマタイム」と呼んだ。余暇を上手に使うと言うより、労働時間を生ませようとした発想があったのだろう。切り替えの時期に少しの戸惑いがあったが、慣れるとこれも良いと思った。サマータイムは4・5年続いたと思う。

冬には札幌大通りで雪像作りが始まった。自校の美術部の生徒がスコップを使って雪と格闘するのを見た。黒ずんだ雪像だった。

これが「さっぽろ雪祭り」に発展し、今では札幌観光を代表する大イベントになるとは思いもよらないことだった。