暗記物遊び

大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まって、尋常小学校は昭和16年に国民学校と名称が変更され、戦争色の漂った時代になった。

私は尋常小学校に入学し、2年生の12月に開戦となった。

当時、小学校入学前に、幼稚園に入るのは特定の家庭のみで、普通は小学校が始めて教育を受ける場であった。

入学前に、自分の名前をカタカナ文字で書け、数字は1から10まで言えればよく、数字を読めて書ければ上の部に入る状況でした。

勉強とは別にゲーム感覚で数字1から10までよどみなく言えること、50音を全部間違いなく言えること。言えると自分も嬉しく、友達と声をあわせて唱えた。学校から帰っても、近所の子供は新入生に対してお兄さん、お姉さんぶって、学校ごっこなどでも暗記を遊びとして教えてくれた。

 

九九

誰でも、算術の基礎として教わる九九。教室の前の壁に九九の表が貼ってあり、算術の時間はもとより、ときにふれ言葉に出して言い合った。逆から言うのが次に流行り、皆で競ったこともあった。

 

昔ばなし

学齢前から読み聞かせられたり、語り聞かされた昔話はすっかり身に付き、小学校入学時には自分も一通り話を語られるようになる。特に「桃太郎」は誰もが一席できるほどになる。話は子供により少しずつ違うのは教えた人の影響なのでしょう。

 

教育勅語

国民学校では時々行われる式典には教育勅語が厳かに唱えられる。当時の児童は誰もが諳んじられた。覚えた教育勅語は70年経過した現在も諳んじることができる。

「チンオモウニ、ワガコウソコウソ、クニヲオサムルコト、コウエンニ、(中略) ギョメイギョジ」

 

歴代天皇

国民学校では修身か国史か定かではないが、天照大神、大国主命、神武天皇などが教育の場に登場し、わが国は万世一系の天皇が治める他国に例のない国である、と教えられた。

歴代の天皇の御名を覚え、すらすら諳んじることができれば自慢で、懸命に暗記に努めた。当時はすらすら言えたが、今では初代から10代程度しか覚えていない。

ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアン、(中略) コウメイ、メイジ、タイショウ、キンジョウ

 

寿限無

子供の頃の最大の娯楽は活動写真、とラジオだった。ラジオ放送で時々聞く落語は子供にも面白かった。「寿限無」は子供にも人気だった。長い名前を覚えた者が教室で人気者になる、私も一生懸命おぼえた。

「げむじゅげむ ごこうのすりきれ かいじゃりすいぎょのすいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ くうねるところにすむところ やぶらこうじのやぶこうじ ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりんがん しゅーりんがんのぐーりんだい ぐーりんだいのぽんぽこぴーのぽんぽこなーのちょうきゅうめいのちょうすけ」

 

モールス信号

昭和18・19年、国民学校の5・6年生になると戦争は次第に激しさを増し、日常の生活は戦争の影響が日に日に高まってきた。子供たちの遊びも同様であった。モールス信号もその一つである。

イ、ロ、ハ は 伊藤・-、 路上歩行・-・-、 ハーモニカ-・・・ の如く・と―の信号音を語呂合わせで覚えた。

以下次の通り。

ニ 入費増加、ホ 報告、ヘ 屁、ト 特等席、以下 地価高騰、 流行地、 塗りもの、 ルール修正、 ヲ 和尚焼香、ワーと言う、 下等席、 洋行、 タール、 礼装用、 相当高価、 都合どうか、 寧猛だろう、  習うた、 ラムネ、 ムー、 疑ごう、 ヰ 威光発揚、 乃木東郷、 思う心、 悔しそー、 野球場、

まあ任そう、経過良好、 封筒張る、 高等工業、 英語ABC、 手数な方法、 あー言うとこー言う、 さー行こう行こう、 聞いて報告、 憂国憂壮、 名月だろう、 見せよう見よう、 周到な注意、 ヱ 回向冥福、兵糧欠乏、孟子と孔子、 世評良好だ、 数十丈下降、 ン 旨めー旨めーな。

私は -・・-・ モーシトコーシが好きだった。語呂合わせの文言を順番に言えても、信号音を聞いて文を起こすことは至難であった。

兵隊の位

国民学校の6年生の頃は敵機の攻撃に備え、各家庭では防空壕を作った。家庭用は小さなものだが、共同住宅などは5・6軒の住人が入れるほどの大型の防空壕があった。防空壕は子供の遊び場所ともなったが、壕の中は暗かったが暗くてもいい遊びもあった。兵隊の階級を暗唱するのもその一例である。

 

兵隊の階級

二等卒、 一等卒、 上等兵、 伍長、 軍曹、 曹長、 特務曹長、 少尉補、 准尉、 少尉、 中尉、大尉、 少佐、 中佐、 大佐、 准将、 少将、 中将、 大将、 元帥、 大元帥

 

その他

軍艦の種類とか飛行機の機種名なども覚えた。