おんぶ

時代とともに生活様式も変わるのだが、そういえば、何時の頃からか、赤ん坊を背負うお母さんの姿が見られなくなった。

母親と対面した方が育児にいいためなのか、長期間胎児と経過した姿勢の延長が母親にとって楽なためなのか。

それとも、育児の専門家の発想がヤングママのファッションになって今の状態に落ち着いたのか。

私は「だっこ」スタイルの子供運搬のネーミングも知らない。私たち夫婦が子育ての時代から50年ほどになってしまった。

「だっこちゃん」というビニール製の黒い人形が大流行りで腕に付けた子が大勢いた頃はまだ「おんぶ」のスタイルが定番だった。

「おんぶ」についてネットで調べてみたら次のような記載があった。

見出しの題名が「おんぶ」の再発見

『渡辺京二氏は、幕末明治初期に西欧人が日本人の得意な風習として注目し、絵や写真にふんだんに残したのは「おんぶ」であると指摘している。(中略)「おんぶ」の風習は、韓国とアフリカにもあるが、同じアジアでもビルマには伝わっていない。ましてや、西洋人には皆無であった。韓国・アフリカとも「おんぶ」には腰と背中に幅広の布で子ども巻きつける方法をとり肩はつかわない。(以下省略)』

子供を背負うスタイルは古来から日本独特のもののようなのだ。

私の子供の頃の母親たちは皆、赤ん坊を「おんぶ」していた。後には専用のおぶり用の商品も出たが、大概の家ではおぶり紐は男物和服に使用する兵児帯だった。赤ん坊の背に帯を充て両腕の脇から出し、くるりと回しながら背負う、前で交差させお尻の部分は帯を広げ、帯の端は前で結ぶ。まことにシンプルで且つ機能的である。家の仕事も外の仕事も負ぶったままの姿が思い出される。母親ばかりでなく、当時は子沢山の家も多く、上の子が赤ん坊をおんぶして遊ぶ姿も珍しくなかった。

「おんぶ」して外出するとき季節により羽織るものが変わる。夏なら薄いケープとベビー帽で日傘、春や秋には「ねんねこ」、寒い時期には「亀の子」とか「角巻き」などが着用されていた。

銭湯帰りだったのか祖母が私を裸のままおんぶしてくれたかすかな記憶がある。

「おんぶ」にまつわる思い出として、夕張レースイスキー場のナイターでのこと。その日は特に寒い夜だった。上から男性のスキーヤーがスピードをつけて恰好よく滑り降りてきた。ゲレンデの中途にいた私はその後ろ姿に驚かされた。背中に子どもを背負っていて、子どもは親と背中合わせのスタイルで顔は山頂を向いていた。父親は西洋人、このような「おんぶ」もあるのか。それにしても移動方向が異なるのに子どもの心理にはどうなのかと気になるシーンだった。

 

デパートの動物園

私が小学校入学のまえ、動物園や遊園地がまだ道内になかったころ、小樽の今井丸井デパートの最上階でミニ動物園があった。猿などの檻があった微かな記憶がある。(他には鳥、熊、鹿か?)

デパートは多様な高級商品がり、心地よい女店員さんの応対で大人には人気の店だ。子供たちも食堂、遊具、玩具などで魅力的な所だったので、デパートに連れて行くと言われると大喜びした。

 

ねーやさん

学齢前に遠軽に住んだことがある。

遠軽の冬の思い出の一つに「ねーやさん」のことがある。冬季は農閑期となるので近郊から農家の娘さんが、裁縫や料理を習いに地方都市である遠軽町に出てくる。遠方のため通うのが難しいとか、家事見習いも兼ねることで、住み込みで「ねーやさん」を希望するものも多かったらしい。つてを頼って我が家にも多数の希望者が秋口から頼まれたと言う。母も丁度出産後であったので引き受けた。若い娘さんが将来役立つようにいろいろ家事、裁縫、料理、育児など親身になって教えたらしい。私もねーやさんが大好きだった。

ある時、私がいたずらが過ぎたのか、お仕置きとして台所の床下のムロに入れられたことがあった。中には林檎や蜜柑が木箱で置かれてあった。見方を変えれば宝のムロに入れてもらったともいえる。林檎を食べていたところを心配したねーやさんが助け出し、一緒に謝ってくれた。

春になって家から帰って来るよう何度も促され、来年もよろしくと言って、泣く泣く帰っていった。お別れは本当に悲しかった。

 

悪戯坊主

目に余るほどの悪戯坊主だったとは思わないが、時には親に叱られることもあった。

田舎の町とはいえ、稀に近くの道路を自動車が通ることがある。車が近づくと道路を急いで横断をして、ドキドキを味わう。車が通り過ぎるとガソリンの匂いがした。何故かいい匂いで子供たちはしばらく後ろを追いかけて匂いをかいだ。

止められていたが、鉄道線路を横切って線路向かいの山に入る。そこの沢にはザリガニが沢山いた。持ち帰るとバレるが、大きな獲物は置いたまま帰られない。

また、遊びに紛れ夕方遅くまで帰らないと、「人攫いにさらわれんだよ。そして酢を飲まされて骨やわくされて、サーカスに売られるんだから」などと言われた。

擦りむいたり、一寸した打撲で泣いて帰ると「痛いとこ 痛いとこ 巌望岩へ 飛んでいけ」と声をかけ、大したことも無ければツバをつけ撫出てお終い。傷とか打撲なら赤チンとかダイオウの葉やキワダの粉で湿布をしてもらった。

父が「マリモ」を貰ってきた。角型の大きな金魚水槽に10~15センチの大きさで3個だった。陽の当たるところおいてあった。浮かんだり沈んだり、小さな泡がでるなどを見ていた。暫くたってある日、棒でつついたり、手で押してみたりしたので壊れてしまった。

 

我が家の衣服

父は鉄道員だったので、出勤には制服であったが、勤務が終わって帰宅後は、和服に着替えていた。

夜改まった席に出席の時は、袴をつけ、羽織姿。冬は二重マントを羽織っていた。背広を着ることもあった。

母はいつも着物を着ていた。白い割烹着姿を思い出す。

真夏にはアッパッパというワンピース。腰巻の上に羽織るだけの簡単着だ。

和服は四季に応じ、銘仙、木綿、モスリン地などの普段着、晴れ着と着分けていた。子供を背負うときは「かめのこ」「ねんねこ」などで保温する。「角巻き」は冬の防寒に欠かせない。1辺が2mほどの四角のウール地で端に房がある。二つ折りにして着る。頭から被ることもある。当時の人々は雪降りのとき傘をさすことは殆どしなかった。

男の子は夏には半ズボンにシャッツ。冬は毛糸のセータが一般的だった。内にはメリヤスのコンビネーション。少し大きくなると上下に分かれたのもとなる。学齢になると学校服を着る。

女の子は夏はスカートに上着。冬は毛糸のセータ、ウール地の服。セータ、手袋、靴下,帽子などは母が毛糸で編んでくれていた。女の子は正月、お祭り、七夕そのほか特別の日には着物を着るときが時々あった。

当時の子供は着るものは多くなく、兄弟間で「お下がり」は特別のことではなかった。それぞれの家ではセータなどは編み変えもするし、修繕は当たり前のこで、夜の団欒のとき母がいつも何かしら手を動かしていた。

学校の式典、お祭りなど、または他所に出かけるときには、「よそ行き」に着替えをして出かけた。

 

金属の牛乳容器

市乳だったのかどうか分からないが、家に届けてもらう牛乳は、普通のガラス製牛乳瓶入りで、紙蓋のものだ。冬寒さが厳しくなると、受け箱の牛乳は凍り、アイス化した牛乳は蓋を持ち上げるようになる。さらに寒くなると、アルミ製かブリキ製の金属製容器が使われるようになっていた。市販の牛乳容器で金属製のものは以後見たことがない。

金魚屋さん

北海道にも夏が近づくと、金魚屋さんの「金魚― え 金魚―」売り声が住宅街の道路に聞こえる。

金魚を入れた盥とガラスの鉢の入った籠を、天秤棒で担いで振り売りをする。売り声に引かれ、先ず子供が集まる。木陰で荷を置き、盥の蓋を開けると金魚が涼しげに泳いでいて思わず歓声が上がる。子供にせがまれると親も買う気になるので、子供も大事な客だ。金魚屋さんはたいてい海ホウズキも持ってくる。金魚を買うと藻と海ホウズキをおまけにくれる。

金魚を買ってもらうのは嬉しい。海ホウズキをはさみで切り離し、小さな穴も切ってくれる。女の子は得意になっていつまでも口の中で鳴らし続けた。

 

鯉のぼり

遠軽の鉄道官舎に住んでいたころに弟が生まれ、兄弟が3人になっていた。

親は子供の健やかな成長を願い、何とか鯉のぼりを立てやりたいと考えていたのだろう。「給水のおじさん」が来てくれて家の前の少し広い場所に穴を堀り大きな幟柱を立ててくれた。学校の国旗掲揚ほどの高さがあったように思う。柱の頂にはプロペラのついた飛行機、その下には長くて大きな鯉が3匹、太いロープに結わえられて揚げられた。青空に元気に泳ぐ鯉のぼりが嬉しかった。

その後、父親の転勤で住まいが変わったが、長い柱が得られなかったり、庭の広さが不足するなどで、この超大の鯉のぼりがゆうゆうと大空に泳ぐことはできなかった。

(「給水のおじさん」とは遠軽機関庫で蒸気機関車に水を補給する仕事をする人)

 

国鉄の盛期

あの頃は鉄道全盛の時代だったのだろう。親子何代、全兄弟、親戚が鉄道員というのも珍しくなかった。私の親戚も正に鉄道一家だった。

当時何かの折に親戚が一同に集まったときに撮った記念写真を見ると、男性はみな鉄道の制服姿だ。子供を鉄道に雇ってもらいたい、娘を鉄道員に嫁がせたいと頼まれることもしばあったと後で聞いたことがある。

その頃は道内の鉄道網は拡大充実に向かっていた。遠軽町は名寄本線と石北本線の分岐する鉄道の要衝として、機関区のおかれた鉄道の町だった。駅を出て左手でそれほど遠くないところに鉄道官舎が幾棟も建っていた。機関区長と駅長の官舎が並んで立っていて、その官舎に住んでいた。現在この辺りはビルの立ち並ぶ場所になっている。線路を越えて遊びにいったことがあったが、機関庫には行くことは無かった。また、この鉄道がわが国でも数少ないスイッチバック運行をする箇所であることは、ずっと後になるまで知らなかった。近くの大きな町といえば野付牛(後の北見市)で、近所の小母さんたちはノッケと言っていた。

時々食料や日用品を積んだ車両が引っ込み線に係留する。これは国鉄職員のための購買車両である。伝票で購入し給料から天引きとなる。季節ごとの果物・野菜類、衣料品などは一覧表や見本から予約注文で購入できる仕組みが既にあった。

家族慰安会は芝居小屋を借りきり、芝居,演芸を弁当付きで催された。当時の芝居小屋には警察がいる席が設けられていた。

全部が鉄道関係者だったのか知れないが、家族ぐるみの花見も盛大なもので、鳴り物、仮装するなどで大賑わいだった。また、職場の家族連れでサロマ湖のホタテ取り、川で炊事遠足、すずらん狩などに行った記憶がある。家族が旅行するときには無料家族パスが利用できる恩典もあるなど、当時の国鉄は殿様企業だった。駅長、機関区長は町の名士に扱われていた。

 

始めて見た菓子自販機 

私が5歳のころ(1938)、当時道東の遠軽に住んでいたが、母の実家のある小樽へ連れられて行くことがある。長い汽車の旅ではあったが、改札を出ると一番先に小樽港を画いた大きな絵が目に入る。そしてホールの中央にある菓子の自動販売機だ。国内でも珍しいほどの存在だったに違いない。細かいことは覚えていないが、大人の背ほどの高さ、幅は1メートルくらい。

黄色の森永キャラメル、赤色の明治ミルクキャラメル、板チョコレートが買え、現在のように商品は外から見えなかった様に思う。お金を入れ、大きなハンドルを下げると出口から商品が出る。扱い方は今とさほど違わないが、金を入れたが本当にお目当てのお菓子が出るかの心配と出てきたときの嬉しさで、自販機は魔法のような感じだった。

キャラメルを大事に抱えて駅の玄関口をでると、小樽の港が見えたので、また感激した。

 

出征兵士

男は大人になると兵隊さんに行くものと、もう幼児の頃から何となく分かっていた。

母と町に出かけたとき、時には街角で女性が千人針作りのために立っている。通行中の女性は進んで玉を作り、他の人にも勧める。「千人針」は兵隊が戦地で銃弾除けの一種のお守りで、手ぬぐいほどの白布に赤糸で結び玉を女性一人一玉を心をこめて刺して作る。市販の白布には薄く赤い印がついている。寅年生まれの女性は年の数の玉を刺すことが出来るとされ、大活躍した。

出征兵の家には出征を祝う幟が立てられていた。入営のための出発時には挨拶が交わされ、皆から激励を受ける。その後、大勢の見送り人が、日章旗の小旗をもち、軍歌を歌い、時々バンザイを叫びながら行進し、駅に向かう。私も母に連れられて何度も行進に参加した。駅ホームでの見送りの記憶は無い。見送りの女性は皆白の割烹前掛けに「日本国防婦人会」とか「日本愛国婦人会」の襷を掛けていた。

 

初めてのジャズ

私が5歳くらいになった頃、母親の出産に際し、小樽にある母親の実家に暫くの間預けられた。

二階の部屋の片隅に、ポータブル蓄音機が置いてあった。直ぐに興味を感じたらしく、誰かがレコードを掛けてくれた。

我が家にも当時電蓄があったが、子供は手を触れることは許されてなかった。このポータブル蓄音機は、格好の玩具代わりとなり、レコードを掛け続けた。始めはハンドルを回して、レコード盤を置き、針を端に置く、音がする。それは、凄いことをしている、快感だった。レコードは何枚かあったが、1枚のジャズが特に気に入り、何度も何度も掛け続けた。

祖父、祖母もあきれ、終いにはレコードは何処かに片付けられてしまった。その後は回転盤にスリッパを載せて遊び、最後にとうとうポータブル蓄音機も何処かに消えてしまった。

当時聞いたレコードの音色、メロディーはずーと忘れなかった。青年になって、「ダーダネラ」「ペルシャの市場」の組み合わせ盤であったことが分かった。さらに何十年か経て、音楽ダウンロードショップで、とうとう再びめぐり合えることができた。

「ダーダネラ」はアメリカの禁酒時代に作曲されたジャズの大ヒット曲だった。それにしても、何故このレコード盤が祖父母の家にあったのか。

 

小樽のタクシー

母の実家は小樽市の手宮にあった。家族連れで田舎から、汽車に乗り出かけるので荷物もあった。小樽駅からタクシーは黒い角型、観音開きで乗り降りには踏み台が出る。車内には肘掛が出るようになっていたと思う。街中を通り、低い峠を抜けると手宮の町が開ける、そして手宮公園への坂道を行く。当時の幼時にとっては、この乗り物は夢のような楽しさを味わわせてくれるものだった。

 

葬式

夏、三歳下の弟が急にぐったりし、病院に連れていかれたが2日後に死んでしまった。

当時は皆自分の家で葬式を執り行った。火葬場には両親は行かず、私は姉と親族と親しくしていた方20数名が参加した。手に手に造花を持った葬列が続いた。参加者は皆白装束で、男性は袴をつけ編み笠姿、女性は白布を被っていた。長男の私が位牌を持つように言われたが、持つのが嫌だった。出棺の際、写真館が来て写真撮影した。写真から見ると当時としては上等の葬儀だったのだろう。

人気者の弟が急に居なくなり、その後は寂しかった。

 

富山の薬屋さん

毎年決まった時期に、富山の薬屋さんが来た。色々な薬の入った何段にも重ねた柳行李を大きな風呂敷に包んで背負って訪れる。挨拶から始まり、世間の色々な面白い話をしながら、預け薬の点検と補充も手際よく、使用した薬代金清算をする。

子供には決まって紙風船のお土産があるので、薬屋さんが来るのが楽しみだった。来てから帰るまでの間、興味深く見ていた。

薬箱が一杯になると子供心にも安心する。風呂敷を背負って帰る薬屋さんのおじさんに「また来てね」と声をかける。

 

父の趣味

父は上手か下手かを別にして、当時の人に珍しいほど多趣味の人だった。

水泳、テニス、スキー、登山、弓道など(学生の頃は乗馬、剣道)のスポーツ系、囲碁は出来ずマージャンはよくした。

バイオリンは家庭で演奏する程度。若い頃から晩年まで続いたのは写真である。老後は園芸大好き人間になった。

当時から写真は撮るだけでなく、現像も自宅でしていた。展示会に出展する大判の写真もあるが、家庭の行事や行楽の際に撮ることが多かった。たぶんフィルムも印画紙も高価だった当事のこと、焼付けして出来上がる写真サイズは小型が多かった。

現像する夜は部屋を閉じて遅くまでかかった。朝起きると、新聞紙の上に多数の写真が並べられ乾かされていた。家族皆で大騒ぎをして見たことが忘れられない。お陰で子供時代の写真が多く残っている。

その頃の写真機はジャバラ式が主だったが、他に今あれば貴重なクラシックカメラが2・3台あった。

 

風鈴屋さん

夏になると、風鈴屋さんの住宅街を売り歩く姿が見えた。記憶にあるものは、リヤカーの上に木組みをして沢山の風鈴を飾りつけ、ゆっくりと売り声とともに回ってきた様子だ。風鈴も数が多いと賑やかな音で煌びやかだ。ガラス製の江戸風鈴とか飾りのある大き目のものなどで、図柄は金魚とか朝顔が主だったようだ。軒先につるした涼しげな音が懐かしい。

 

宝物カルタ

お正月が近づくと、様々の「すごろく」や「かるた」が玩具屋さんに並ぶようになり、これを見るだけで子供たちは楽しい正月のことでワクワクする。私が学齢まえに祖父から、いろはカルタを贈られた。その中に特別のカルタがあった。読み札が筆文字の平仮名だった。小さな子供にとって必ずしも嬉しいものではなかったのではなかろうか。当時、幼稚園に入る子供はごく稀で、カルタなどで少しカタカナ文字を識別できれば上の部だった。幼かった私だが次第に、絵本作家武井武雄の描く個性の強い美しく楽しい絵札に魅せられてしまった。その後次第に独特な読み札も好きになった。他にもあったカルタの中で、このカルタは一番の気に入りとなり、宝物となった。

現在も手元にあるが、宝物といっても、私の子供や孫にも遊ばせたので、今では色、体裁とも草臥れてしまった。