中学校 岩見沢

越境して転入学

住居が建物強制疎開の指令により、小樽市手宮から江別町在住の叔母の家に、私の家族全員が同居させてもらうことになった。

引越し荷物を発送した日は、丁度天皇陛下がラジオで国民に向けて終戦の受託をした旨の放送があった日だった。疎開指令は解除されるだろうが、叔母の家も母子世帯であり、戦後の混乱の時代を考えそのまま転居することにした。

当時の江別町には男子の中学校が無く、札幌の中学に通学していた。江別町は石狩管内、岩見沢市は空知管内である。母は越境通学と知りながら岩見沢市に親戚があることから、不慮の時でも助けになるだろうと考え、無理を押して私を岩見沢中学へ転校させたのだった。深刻な食糧難の最中であり、汽車通の定期券で途中下車して薯やカボチャの買出しや運搬をすることが何度もあった。

 

岩見沢市には中学校1校、女学校2校、農学校校があった。広い農地帯、交通の要所、周辺に炭鉱が散在した中心的な地方都市なのだ。当然岩見沢周辺から大勢の青少年男女が通学していた。市内の生徒が3分の1程度で圧倒的に周辺部から通学生徒が多勢だった。

 

変わる教科書

従来の軍国主義教育は敗戦と共に消滅させなければならない。国はもとより教育関係者の戸惑いは如何ばかりだったであろうか。特に先生は生徒に対し軍国少年を育てる使命があったのである。素直に受け入れていた子供にとっても、戸惑うことが続いた。昨日まで使っていた教科書も、差障りのある箇所を先生の指示通りに墨で塗りつぶした。自分を否定するような惨めさがあり、同じ思いをした生徒が沈黙のまま塗り作業をした。

教科書改訂が急がれたものの、紙不足で教科書作成が間に合わなかったのか、綴じた製本された教科書の間に合わせとして、新聞のサイズに画面割して印刷されたものが教室で配布され、各自が裁断して綴じ冊子にしたものを教本としたことがあった。

 

帰還

戦局の悪化に伴い、働き手の男子は軍隊や戦力に直接関わる産業へ召集され、担い手がない農家もあった。食糧難の最中でもあり、中学生は援農に駆り出された。憧れの中学校に入学したのだが勉強は二の次である。岩見沢中学校で終戦の年に入学した生徒とその上級生は、農作業などの勤労奉仕に駆り出され、労苦を体験したのである。

 

戦時中、中学から当時憧れて海軍兵学校や予科練へ進んだ生徒も終戦で故郷に帰還し、中学校へ復学する者も居て、軍服を着て生徒に帰還の挨拶をした。海外から引き上げて来た生徒もいたし、復員して復学する元教師もいた。次第に学校は生徒数が増加し、校舎の増棟が避けられない状況になっていった。

 

汽車通学

岩見沢市内の中学校・女学校などへ進学する生徒には近在から汽車通学する者が圧倒的に多かった。岩見沢市は石狩炭田の中心地である。多くの炭鉱には石炭を輸送する鉄道網が敷かれていた。今では、産業遺産と成ってしまった炭鉱であるが、当時は最盛期の時代で多くの人口を抱えていた。

通学の時間帯には駅のホームが生徒で埋まった。函館本線、幌内線、幾春別線、万字線、室蘭線と各線があり、さらに乗り換え線に分岐して炭鉱町へ繋がっていた。

市内にある男女4校の生徒は男女別、学校別にホームの位置が決まっていた。遠方の地から通学する生徒は朝の乗車は6時頃となる、列車の運行速度が遅く本数も少ない。行き帰りの乗車時間には予習、復習の勉強時間や友達との交流の大事な時間である。

岩見沢地方は道内の豪雪地帯でもある、大雪の日の列車は大幅に遅れる、時には運休となる、これが汽車通生徒の悩みの種だった。また運行本数が少ない反面、買出し、引揚者などの乗客も多く、すし詰め列車にも悩まされた。

駅から学校へ行く通学路は、各校とも決まっていて、生徒等は整列して通った。岩見沢中学校は駅から一条通りを左折して夕張通りで右折して学校へ行く1.7キロほどの道程である。

 

私たちは函館本線の上り線、幌向と上幌向駅からの生徒だけなので、他線から見ると少人数だったが、登校時は同じように隊列であった。戦後の中学生の服装は戦闘帽に白線を縫いつけ、国防色(カーキ)の学生服を着た者が三分の一、他は学生帽と黒学生服だ。履物は靴と下駄履き、冬はマント着用者が多かった。軍隊帰りの父兄が持ち帰った軍靴、外套を着用者も珍しくなかった。これは生徒ばかりでなく教師も同様だった。

 

 

僕達の級長

尋常小学校入学から高等学校卒業するまで、私は八つの学校で学んだ経過がある。学級で交わった級友の人数も相当な数になる。学年ごとに撮った集合写真を見れば、当時のことも微かに蘇るものの名前は特に交流のあった友の他はトンと分からない。

級長は担任の先生が生徒の中から適任者を決めるのだが、級長は学力はもとより統率力があり、かつ人との親交にも優れていたのでいつも生徒の中心的存在で人気者だった。

記憶に残る級長が3人いる。「栴檀は双葉より芳し」の言葉通り、長じて仕事や研究などを立派にしっかりやる大物になっていた。

 

岩見沢中学校生の時の級長N君

軍国時代の教科書は進駐軍の命により、統治に相応しない文言は墨ぬりをすることとなった。A君とはあの頃同学級だったから2年生の頃だ。久しく経過後、卒業45周年記念誌で投稿された彼の文書を読み当時を思い出した。彼がその後どのような人生を歩んだのかが分かった。教育改革による学区制、男女共学制により、旧制女学校である岩見沢西校に配置された後、北大医学部を卒業。北大付属病院外科医となり、29歳で渡米、以後心臓外科、人工心臓や人工臓器の専門医となり、後には世界最大のメディカルセンターの人工臓器部門研究所長になった。多くの受賞歴を持つこの分野での世界的権威者になった。

頂点を極めたと見られる彼が昨年(2011)ヒューストン市で死去したと新聞で報道された。

級長の死を大変残念に思え、机を並べた友を誇りに感じた。

彼にはもう一つエピソードがある。北大にも学生運動の激しかった時期があった。その頃札幌農学校の原点を見つめ直し正常化を図ろうとしたグループがいた。その先頭に立ったのがN君だった。その後彼らは農学校からの歴史「北海道の青春」を出版した。ベストセラーとなったその印税がクラーク会館の設立資金となったという。

 

旭川日章国民学校の時の級長A君

勉強も運動も1番、同じ分団なので校外活動も一緒で仲良し仲間だった。学校は常磐公園近く、私たちの住所は校区の南端だった。A君の家は旭川の旧家で手広く事業を営む資産家の子息だった。初めて家を訪れたとき、お屋敷に驚き、室内の立派な調度品に目を見張った。様々な珍しいものを見せてもらったが圧巻はフィルム映写機の活動写真だった。

校外活動では近郊への遠足、川遊び、スキー、お泊まり会、肝試しなど一緒に楽しんだ。お爺さんが開いた層雲峡には温泉ホテルがあり、招待されて皆で大騒ぎした思い出は忘れられない。

A君とも私の転校とともに交流は断ち切れてしまった。後年、当時を思い出すとき、土木建築業の会社の跡取りになっているだろうと思っていた。ある日何気なく見ていたテレビで思いがけなくA君の顔と話題が流れた。何かの貢献に対する表彰だった。

彼の足跡は分からないが、旭川市で大手の土木、建築、住宅の総合建設会社の会長になっていた。

近所にA君の会社の札幌支店に勤務していた人がいて、彼の事を話したところ、平成19年(2007)に死去したと知らされた。

 

札幌北光小学校1年生の時の級長O君

大柄で元気な勉強のできる級長だった。O君の家は学校からほど近いところにあった。学校へ行く途中には立派な門のある屋敷があり表札を見て親戚の家なのかなと友達と話していた。2年生になる時転校したので彼との友達関係は終わった。

高校1年の時転居した先が偶然O君の家と小路を挟んだ隣家だった。O君は小学校1年の私のことは忘れていただろうし、高校も別だったので恥ずかしくもあり、互いに顔を合わせることも話をする機会もなかった。

私が現住所に転居後、近所の人と世間話をした折、私が小学校の頃の話とき、Oさんを知りませんかという。叙勲されたその人と職業上の関連があったようだ。O君は日本を代表する大手の通信事業者の会長だという。

前記の級長N君、A君を書いたので、O君について検索をしてみた。写真は同年輩より若そうに見えるが、どうもあの時の彼のようだ。

勿論努力されたこととではあるが「栴檀は双葉より芳し」の通りだ。

 

農作業

中学生は学業の時間を割き、出征家族のいる農家の農作業を助ける奉仕活動を強いられた時期があった。  

上級生は泊り込で援農に従事していた。2年生も援農奉仕活動に出た学級があったが、私たちの学級も何処かの稲刈りをした。あの頃の農作業は人力による作業がほとんどで、力仕事も無理な姿勢も慣れないことばかりだった。仕事の辛さより空腹が辛かった。