国民学校 旭川

日章小学校

小学2年生になった時期父の転勤により、旭川に移り、最初の転校を体験した。転校先の学校は日章小学校だった。学校は常盤公園に近く、旭川駅近くの我が家からは1Kmほどの所だ。

校舎はロの字型で東向きに玄関、南と北に児童の通用口があった。中庭は低学年の遊び場になり、屋外運動場は広々としていた。玄関先には奉安殿があり、前を通るときは立ち止まりお辞儀をして通った。

学級名は、智組・勇組・仁組・誠組・敬組となっていて、智・勇組が男児、誠・敬組が女児、仁組は男女混成組だった。

ただし、1・2年生は各組男女混成の編成だった。

昭和16年、3年生になったとき、旭川市立日章国民学校と改称され、同年12月に大東亜戦争(当時の呼称)が開戦され、当然なことに学校教育も国政に沿って変わって行った。

旭川で学んだ頃が私の一番の懐かしい時期だった。

 

旧仮名遣い

教科書の記載は旧仮名遣いであった。何故このように書くのかと、思ったがそれが正しいのだと教えられた。

勿論新聞も雑誌も旧仮名遣いだ。

ウンドウクワイ  (うんどうかい 運動会)

テフテフ  (ちょうちょう 蝶々)

ケフ  (きょう 今日)

イフ  (いう 言う)

イヘ  (いえ 家)

ヤウナ  (ような 様な)

イワフ  (いわう 祝う)

チガヒナイ (ちがいない 違いない)

カウシテ  (こうして 効して)

オフ  (おう 追う)

 

旧仮名と旧文字

教室に掲げられていた五十音の表の中に、文字は違うが発音が同じというのがある。使い分けは子供にとって難しい。

イとヰ、エとヱ、オとヲである。(ひらがなでは、いとゐ、えとゑ、おとを)

区別するのに「ヰ」はヰマスのヰ、「ヱ」はかぎのヱ、「ヲ」は下のオ、と教えられた。ヰから始まる言葉の例では、居る、亥、田舎、院。ヱから始まる言葉の例としては、繪本、繪草子、越前など。女子の名前にも使われていた。

その他、文字では変体仮名が街の質屋、老舗の蕎麦屋、菓子屋の看板、暖簾、品書きなどに使われていた。低学年の頃、「しちや」の「し」と「しるこ」の「こ」の変体文字が似ているので質屋の看板を「こちや」と読んだものだ。

教科書に出てくる漢字には字数の多い難しい漢字があった。今では程よく簡略化されなじみの文字となっている。

学校でよく使われていた漢字を列挙すると次のとおり。

學校→学校、國語→国語、音欒→音楽、體操→体操、辨当→弁当、繪本→絵本、櫻→桜、歸宅→帰宅、戰争→戦争

 

先生

2年生のときの担任のU.N先生は優しくて好きな女先生だった。時々和服で来ることもあり、そんなとき子供たちは嬉しいような、いつもと違う感じを受けた。オルガンを弾くのが上手で、皆聴くのが楽しみだった。先生は独身で、○○先生と仲が良いなどと子供のくせにたわいもない噂話をしていた。

教室に来るときは、出席簿、チョーク箱、教鞭を、時には絵図の掛図を持ってくる。大きなソロバンを使った学習も思い出だ。

3年生に進級した時組変えがあり、男女別のクラス編成になり、男先生が担任になった。このK.N先生には二年間お世話になった。教室では黒い詰襟の教員服か国民服で熱心に指導をしてくれ、国を守る大切さも教えてくれた。運動の時は白の運動着姿、若々しくいつも児童と一緒に走り回った。30歳前の教育熱心な教師で皆が大好きだった。

K.N先生は学校に居る時のみならず、児童の課外活動も地域の活動でもいつも参加し、見守り、指導てくれた。

子供の頃を振り返ってみるとき、一番懐かしく思い出されるのが旭川の日章国民学校の頃で、友達と遊んだ思い出と共にいK.N先生のことを思い出す。

私は5年生時に旭川を後にしたのだが、その後一度も当時の友にも先生にも再会することは無かった。

 

私が70歳ころになって、先生が以前某少年自然の家の所長だったことを知り、その施設を訪ねたが、余りにも年月が経ていて、写真も知る人も居なかった。

 

学校の保健

保健室に「太陽燈」という蒙古のパオのような円形の装置があり、扉を開けると中央に紫外線を出す装置があり、内壁に上半身裸で遮光眼鏡を付けた児童が20人位並んで光を浴びる、冬期間の日光不足を補うためだったのだろう。

開けた口に液体の肝油を注いでもらうか、サイコロ状の甘い肝油を貰うこともあった。

学校給食の無い時代だったが、虚弱児童に対し希望者は昼休みに牛乳が飲めた(月極め有料)。

定期的に身体検査があり、ツベルクリン、その他の予防注射を受けた。予防注射はアルコール綿で注射針を拭ただけで何人も続けて注射していた。天然痘などの予防接種はメスで腕に×印状に切れ目を入れる、傷口が膿んで痕が残る子もいた。回虫の虫下し薬も学校から貰っていた。

今ほど保健に強い関心のない時代だったであろうが、学童はさまざまな保健の施しを得ていた。

 

当番

学級には先生が定めた級長がいた。A君は勉強が出来るだけでなく、体格が良くスポーツ万能、誰からも尊敬され、級長として適任者だった。学級の結束は彼に負うところが大だった。

学級内の役割分担として、掃除、規律、図書などいろいろあった。週当番は黒板拭き、冬季には集めた弁当を纏めて校内の保温室に入れ、昼食時に受け取りに行く仕事、使丁室の大鍋から湯を汲み、薬缶から各自の弁当箱の蓋に注いで回る仕事、翌日用にストーブの石炭を石炭庫から運搬する仕事、高学年になると石炭運びは低学年の学級への運搬もした。

ストーブの石炭補給や火加減調節はストーブの近い子の特権であり、誰もが是非したい役目だ。

校舎の清掃は学童がするのが当たり前のことだった。教室の毎日の掃除は無論、学校一斉にする大掃除では窓のガラス磨き、教室や廊下の束子掛け、冬季には屋体に雪を取り込み踏んで清掃、校舎の外回りのゴミ掃除など、さまざま自分たちの出来ることは力を合わせて行った。

 

記念運動会

旭川市立日章国民学校は旭川では始めての公立の学校だった。

私が4年生だった年には既に創立50周年を迎えた。記念誌が発刊され児童にも配布された。その年の運動会は創立50周年記念大運動会として、特に力を注いだものだった。

会場は学校から近い常盤公園グランドだ。父母や親戚も卒業生も大勢見に来て、人垣でグランドは囲まれ、熱気に包まれた。

午前の部が終わり観覧席で親子が運動会のご馳走を食べ終わり、午後の部が開始されたが、今までの天気が俄かに激変し、土砂降りとなりついで大粒の雹の直撃で児童も観客も大騒ぎとなった。グランドはくるぶしまで雨水が溜まるほどだ。木陰は無論のことテントや近くの家に非難する程のすさまじさ、大量の雹が浮かんだ水が冷たく立っていられぬほどだ。日章の運動会はいつも天気に恵まれることで生徒の自慢だっただが、こうして創立50周年記念大運動会は中止せざるを得なかった。だがその為今も記憶に残る運動会となった。

 

奉安殿

殆どの国民学校では正面玄関の近くの庭に奉安殿と呼ばれる施錠された神殿風ないし宝物殿風の小さい建物が建てられていた。二ノ宮金次郎の像もあり、神聖な所として生徒は通用口に行く際、この前を通るときには必ずお辞儀をして通るものと教えられていた。奉安殿には御真影(天皇・皇后両陛下のお写真)と教育勅語が保管されている。

学校で式典を執り行う際、生徒は屋内体操場に整列し、校長先生が壇上正面の御真影が安置してある扉と中の幕を開く、教頭先生が教育勅語の入った漆塗りの箱を盆に載せて恭しく運んでくる。校長先生が白い手袋で紫の袱紗を取り箱から勅語取り出す儀式ばった作法を私は興味深く観察する。教育勅語は頭を下げて聞く。教育勅語は皆が覚えているので心で一緒に唱えていた。その神聖な趣に浸りつつ式典に臨んだ。当時、天皇陛下は神として存在視され、天皇陛下に関わる話をするときは、「賢くも」とか「恐れ多くも」という言葉を先に言ってその話が始まる。一方聞く方も直立又は正座して身を正した。宮城遥拝をすることもあった。皇居の方角に向かい最敬礼をする。終戦前はこれがごく当たり前のこととして誰もが受け止めていた。

 

教育実習生

当時は高等女学校で教職課程を学修し、教育実習の課程を経ると教職に就けることが可能だったのか。国民学校4年生の時、近くにあった北海道庁立旭川高等女学校の女学生が二人、私たちの学級に教育実習に来た。

セーラー服の制服姿のお姉さんは、忽ち人気ものになり、男児学級の子供たちは勉強も運動も張り切り、楽しい時間を過ごした。事業が終わってもグランドで一緒に遊んだ。やさしいお姉さんだった。実習の期間が終わりに近づくと名残惜しく、その頃としては珍しくも全員そろって記念写真を写してもらった。実習生のお姉さん先生が懐かしく、学友の何人かで女学校へ行って見た、もう一度会いたかったのだが再会することは無かった。

 

映画学習

ひな祭りが近づくと、学校では畳敷きの部屋に立派な雛が飾られた。雛を見るだけでなく、ひな祭りには他に楽しみもある。学校内で低学年向けに映画会が催されるのだ。二三本の短編の映画の後漫画が始まると「ワー」と大歓声が上がった。

テレビの無い時代映像を見る機会は、そんなに多くは無い。たまに家族で映画館に行く程度だった。

大東亜戦争が始まり、戦時教育の一環なのか、高学年の児童は、先生に引率されて街の映画館に行って映画を見ることがあった。

どんな映画を見たのかほとんど記憶がないが、真珠湾攻撃のニュースと「路傍の石」を見たような気もする。

 

愛国少年への道

時は戦争中、軍都旭川にあって子供でも国を守らなければならないとの思いはいつも持っていた。

近所からも出征する若者や、街中で兵隊さんを見かけることもあったが、その姿形は格好良く見えた。

担任の先生は海軍で兵役を経験していたので、軍隊時代の話を聞かせてくれた。学年の催しでも軍帽・軍服の展示と必勝をこめた書道の展示があった。戦争の進展状況や戦果についての話は子供たちも真剣に聞いた。

授業時間でも「図画」では空中戦や軍艦攻撃の絵を、「書道」では無敵海軍、この一戦、などが題材だった。下校前には教室の全員が起立して、交戦の激化により戦死した兵士に対し黙祷し、「海行かば」を斉唱した。

先生に連れられ旭川師団へ行ったことがある。門を入るときは緊張しながらも普段は見ることのない広い敷地に入った。中には軍隊の建物があり、大勢の兵隊さんが訓練をしていた。兵舎も外から見学し、最後は酒保に行きお菓子を貰った。

陸軍病院へ慰問に行ったこともある。集会所では大勢の白衣を着た傷病兵の前で唱歌を歌い、劇を披露した。戦地で病気や怪我した兵隊さんが大勢いるのだなと思い、兵隊さんは偉いなと思った。

ニュース映画で隼戦闘隊の活躍ぶりはよく知られていたし、「エンジンの音 轟々と 隼は行く 雲の果て・・」勇壮な軍歌もよく歌った。英雄加藤建夫隊長が旭川近郊の出身ということで、我々も誇りに思っていた。4年生の時加藤隊長が戦死した。先生に引率されて東旭川の生家を訪れた、田んぼの中の農家だったと記憶している。

戦争が学校教育に影響をすることは避けられないと言うより、愛国少年を育む大きな力となったと思う。

 

第一分団 

教室の児童の校外活動を助けるため、「分団」と称し校区を分けていた。我々の分団仲間は特に仲良く活発な活動をしていたので、楽しかった思い出が沢山ある。

「第一分団」が我々の分団で、宮下通りと一条通りに住所があるもの6名だった。家業はいろいろで、自転車屋、鉄道員、歯医者、会社員、実業家であった。

「遠出」 時々遠足をした。特に気に入ってよく行くところは、4キロほどある神楽丘だった。鬱蒼とした大木があり、秋には落ち葉を踏むのも楽しい、忠別川を遡上する鮭を橋の上から見るのも楽しかった。神居古譚の川遊び、緑色の石は書き石として使えるので探す。当時の川は頗る綺麗で水量も多く白い吊橋はとても美しかった。

「山スキー」 冬カムイ岳に山スキーに行ったこともある。他の分団と合同でリーダー役の担任の先生と中学生の補助員がゲレンデスキーしか経験のない子供たちを指導してくれた。何時間も雪山を登り、一度だけ滑り降りる。深雪はなかなか思うように滑ることができなく、転ぶと起き上がれない、スキーを逃がすと一大事だ。無事麓に降りたときには疲れたが大きな達成感を味わった。

「肝試し」 宮下通り2丁目に古いお寺があって、大木と茂った藪とお墓がある、昼でも寂しいほど静かな処だった。

隣の分団とここで肝試し大会をすることとなり先生にも加わってもらった。暗くなって怖い話の後、一人ひとりがコースを巡るのだが、結構薄気味悪く、思い出の一夜を過ごした。終わってから友達の家でご馳走をいただいた。

 

「お呼ばれ」

「お呼ばれその1」 分団の団員と入っても教室の友達で住まいも近いので、互いの家に遊びに行ったり来たりしていた。

ただA君の家とは離れていたのでその機会がなかった。ある時(A君の誕生会であったのか)団員皆が家に招待された。

A君は勉学・運動も特に秀ているだけでなく、誰からも好かれる少年だった。曾お祖父さんの代から地元に功績のある実業家の息子さんだった。立派な家に驚いてしまった。馳走は何だったか思い出せないが、ムービーを見せてもらい更に驚いてしまった。

当時家族や風景をムービーで撮ったり、映写するようなことは考えられなかった。

「お呼ばれ その2」 A君のお祖父さんは層雲峡を開いた人で層雲峡にホテルを持っていた。そのホテルに分団の友達が招待された。ホテルに泊まることも、親から離れて友達だけで旅行して泊まることも初めてのことで、最高に楽しかった。

その頃の層雲峡は渓谷を縫う道、滝、清流、周りの様子など現在とはかなり違っていて、より原始の美しさがあった。

「お呼ばれ その3」 S君の家は自転車屋だった。ある夏、分団の行事に「お泊り会」の案が出たとき、S君が自分家でしないかと言ってくれた。親の許しも得て泊まる日が決まり、子供たちは枕を持参してS君の家に集まった。

広い店内に自転車が沢山並んでいた。S君のお父さんもお母さんも私たちを歓迎してくれた。

二階の部屋に布団を並べて寝たが中々寝付かれなかった。些細なことだが小さい頃の大切な思い出となった。

 

戦勝祝いのゴムマリ

大東亜戦争の開戦直後は、日本の戦況は頗る順調そのものだった。少年たちはラジオニュース、新聞で報じられる戦果に興奮した。開戦の二月後には英国の植民地だったシンガポールを陥落させ、「昭南島」と呼ぶ様になった。日本は英国らか解放したと教えられた。山下・パーシバル両将軍の降伏交渉のニュース映画を見て日本は強いと思った。

連勝に続く連勝で、このまま進めば一気に勝敗がつくのではと期待感で満ちていた。

それは国民学校4年生の頃だ。シンガポール陥落記念として「ゴムマリ」が各教室に支給された。軟式テニスボール位のゴムマリだった。その頃は既にゴムマリは手に入らない貴重品だったのだ。野球はボール一個でも学級全員が遊ぶことが出来たので嬉しい贈り物だった。グローブ、バットが無くても素手と板切れがあれば遊びには十分だったので、その後放課後は野球だった。女子の学級ではマリつきが流行っていた。

 

唱歌

国民学校で習った唱歌には、今も多くの人に愛される歌が多くある。文部省唱歌には美しい四季の歌を中心に、歴史、戦争、親兄弟、郷土など広く、歌っても聞いても心が和む歌が多かった。国民学校になり、軍の教育に対する発言が強くなってきたことは容易に想像できるが、唱歌はあまり影響されずに済んだ。だが、音符を読むとき「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」は「ハ・ニ・ホ・ヘ・ト・イ・ロ・ハ」で置き換えて読む様に変わった。「春の小川」は「ホトイト ホトハハ イイトホ ハニホ ホトイト ホトハハ イイトホ ニホハ ・・・」と教室で歌ったていた。ついでに言うと当時子供たちに流行ったハーモニカの音符は数字表記だった。

4年生のとき習った「若葉」は好きな唱歌だ。その上旭川放送局で学友と歌った思い出深い唱歌だ。現在の旭川放送局は日章小学校のすぐ近くにあるが、当時は学校から2キロほど東にあり、先生と10人ほどの学友と一緒に行った。スタジオにはマイクロホンが中央に立っていた。放送の説明が済むと「若葉」の合唱練習をして本番の放送。電波に乗って歌声が遠くまで届いたと感激した。

歌が終わってから、風、足音、波音などの擬音を作る道具の説明を受け、私たちも擬音づくりを試させてもらった。

今思うと本当に放送されたのか、放送の実感を感じさせる為の策だったのか不明なのだが。

「若葉」の歌詞は次のとおり

鮮やかな 緑よ

明るい 緑よ

鳥居を包み 藁屋を隠し

香る 香る 若葉が 香る

さわやかな 緑よ

豊な 緑よ

田畑をうづめ 野山を覆い

そよぐ そよぐ 若葉がそよぐ

 

器楽演奏

国民学校の音楽学習で器楽演奏をする。音楽教室に少数の楽器があったが、全員が同時に利用するほどの数は無いので、順番がくるまではカスタネットを鳴らす係りだった。ハーモニカを持ってきて上手に吹く子もいた。

私はオルガンかアコーディオンを弾きたかったが、音楽の時間だけで旨くいく訳もない。買ってもらうのは不可能なことだ。当時の社会には物不足が進み、「贅沢は敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」の時代だ。いろいろ考えた末、木琴なら買ってもらえるかも知れぬと思い親に願い出た。

他にも買ってもらえた子がいたので木琴とハーモニカが中心の器楽練習が続いた。無理して買ってもらったものの大して上手には成れなかったが、学芸会では学級全員で演奏をした。

 

皆既日食

昭和18年(1943)国民学校4年生の時期、旭川市でも皆既日食を見ることが出来ると報じられ、一生に何度もない好機なので、学級で観測をすることになった。蝋燭の油煙で黒くしたガラス板を用意するほか、満ち欠けを時間ごとにスケッチする、あたりの明るさや気温の変化を観察する、鳥や犬猫の行動観察、など班毎に分担して記録することとした。

日食当日観測所は校舎の南東角2階の音楽教室だったと思う。2月の厳冬時期だったが皆早朝に集まり世紀のその時に臨んだ。

コロナ、とかプロミネンスとか事前に学んだが確認は出来なかったものの皆既日食という天体の見せ場に感動した。

 

兎に角暗記

国民学校3年生の時に大東亜戦争が開戦したのだが、「宣戦の詔勅」を何度も聞くうち子供たちも意味もわからないまま覚えた「テンユウヲホユウシ バンセイイッケイノ コウソヲフメル ダイニッポン テイコクテンノウハ アキラカニ チュウセイユウブナル ナンジシンミンニ シメス」この辺まではすらすら言える。「チン ココニ ベイコクオヨビエイコクニタイシテ タタカイヲセンス」この部分は記憶に残る文言だ。

意味はともかく覚えなければならない筆頭が「教育勅語」だ。意味を理解するようになり、本当にいい教えだと思った。

「チンオモウニ、ワガコウソコウソ、クニヲオサムルコト、コウエンニ、トクヲタツルコトシンコウナリ、ワガシンミンヨクチュウニ、ヨクコウニ、オクチョウココロヲイツツニシ、ヨヨソノビヲナセルハ、コレワガコクタイノセイカニシテ、キョウイクノエンゲン、マタジツニココニソンス、ナンジシンミン、フボニコウニ、ケイテイニユウニ、フウフアイワシ、ホウユウアイシンジ、キョウケンオノレヲジシ、ハクアイシュウニオヨボシ、ガクヲオサメ、ゴウヲナラヒ、モッテチノウヲケイハツシ、トクキヲジョウジュシ、ススンデコウエキヲヒロメ、セイムヲヒラキ、ツネニコクケンヲオモンジ、コクホウニシタガヒ、イッタンカンキュウアレバ、ギユウコウニホウジ、モッテ、テンジョウムキュウノコウウンヲフヨウスベシ、カクノゴトキハ、ヒトリ、チンガチュウリョウノシンミンタルノミナラズ、マタモッテナンジソセンノイフウヲケンショウスルニタラン、コノミチハ、ジツニワガコウソコウソノイクンニシテ、シソンシンミンノ、トモニジュンシュスベキトコロ、コレヲ、ココンニツウジテアヤマラズ、コレヲチュウガイニホドコシテモトラス、チン、ナンジシンミントトモニ、ケンケンフクヨウシテ、ミナソノトクヲイツニセンコトヲコイネガフ

メイジニジュウサンネンジュウガツサンジュウニチ

ギョメイギョジ」

国史の教科書にも分からなくても覚えなければならないものがある。

国民学校4年生の国史では「天孫降臨の詔」を学ぶ。「トヨアシハラノ チイホアキノ ミズホノクニハ コレワガ キミタルベキ クニナリ ヨロシクイマシ スメミマ ユキテシラセ サキクマセ アマツヒツギノ サカエマサンコト マサニ アメツチトキワマリナカルベシ」

さらに続いて日本の開祖から始まる「歴代の天皇名」を学んだ。兎に角長いが、どこまで暗記できるか友達と競って暗記した。

「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアン、コウレイ、コウゲン、カイカ、スジン、スイニン、ケイコウ、セイム、チュウアイ、オウジン、ニントク、リチュウ、ハンゼイ、インギョウ、アンコウ、ユウリャク、セイネイ、ケンゾウ、ニンケン、ブレツ、ケイタイ、アンカン、センカ、キンメイ、ビダツ、ヨウメイ、スイジン、スイコ、ジョメイ、コウギョク、コウトク、サイメイ、テンジ、コウブン、テンム、ジトウ、モンム、ゲンメイ、ゲンショウ、ショウム、コウケン、ジュンニン、ショウトク、コウニン、カンム、ヘイゼイ、サガ、ジュンナ、ニンミョウ、モントク、セイワ、ヨウゼイ、コウコウ、ウダ、ダイゴ、スザク、ムラカマ、レイゼイ、エンユウ、カザン、イチジョウ、サンジョウ、ゴイチジョウ、ゴスザク、ゴレイゼイ、ゴサンジョウ、シラカワ、ホリカワ、トバ、ストク、コノエ、ゴシラカワ、ニジョウ、ロクジョウ、タカクラ、アントク、ゴトバ、ツチミカド、ジュントク、チュウキョウ、ゴホリカワ、シジョウ、ゴサガ、ゴフカクサ、カメヤマ、ゴウダ、フシミ、ゴフシミ、ゴニジョウ、ハナゾノ、ゴダイゴ、ゴムラカミ、チョウケイ、ゴカメヤマ、ゴコマツ、ショウコウ、ゴハナゾノ、ゴツチミカド、ゴカシワバラ、ゴナラ、オオギマチ、ゴヨウゼイ、ゴミズノオ、メイショウ、ゴコウミョウ、ゴサイ、レイゲン、ヒガシヤマ、ナカミカド、サクラマチ、モモゾノ、ゴサクラマチ、ゴモモゾノ、コウカク、ニンコウ、コウメイ、メイジ、タイショウ、キンジョウ」

 

儀式

国の祝祭日は「旗日」といい学校も休みだ。「旗日」のうち特に四大節は大切な祝日で学校でも式典を挙げていたと思う。

1月1日の四方拝はどうだったか不明だ。式典にはそれぞれの祝日の歌を斉唱した。2月11日の「紀元節」では「雲に聳ゆる高千穂の 高根おろしに・・」。4月29日「天長節」は「今日のよき日は 大君の 生まれたまいし よき日なり・・」

11月3日「明治節」は「亜細亜の東 日出るところ ひじりの君の現れまして・・」。

式典では紅白の幕、大きな松の盆栽、ご真影、教育勅語、祝日の歌斉唱、校長先生のお話、フロックコートの校長先生、袴姿の女先生、無暖房の運動場、身形を正した児童 の姿。このような場面が甦る。

お祝いの菓子を貰ったという友人もいるが、記憶は定かでない。

 

卒業式

辺りが雪でも春の期待に胸弾む3月。

卒業式は弾む心と愛おしいまでの思い出が重なる。厳しくて優しい恩師、勉学を共にした旧友との別れ、そして希望の門出などさまざまの思いが交差するのだ。例え自分たちが卒業の当事者でなくても、式に参列しているとジーンとくるものだ。

紅白の幕が運動場に張られ、卒業生が前のほうに、在校生は後の方に並ぶ。式次第は正確でないが、開式 国歌斉唱 校歌斉唱 卒業証書授与 校長先生のお話 来賓の祝辞 蛍の光斉唱 卒業生答辞 仰げば尊し斉唱 閉式 だった。初礼、終礼のピアノの和音も思い出すと懐かしい。

特に「仰げば尊し」斉唱には万感胸に迫り嗚咽が混じった。

「蛍の光」

蛍の光 窓の雪

  書読む月日 重ねつつ

  いつしか年も すぎの戸を

  開けてぞ今朝は 別れゆく

とまるも行くも 限りとて

  互みに思う 千万の

  心のはしを ひとことに

  幸くとばかり 歌うなり

筑紫のきわみ 陸の奥

  海山遠く へだつとも

  その真心は へだてなく

  ひとえに尽くせ 国のため

「仰げば尊し」

仰げば尊し 我が師の恩

  教えの庭にも はや幾年(

  思えばいと疾し この年月

  今こそ別れめ いざさらば

互いに睦し 日頃の恩

  別るる後にも やよ忘るな

  身を立て名をあげ やよ励めよ

  今こそ別れめ いざさらば

朝夕なれにし 学びの窓

  蛍のともしび つむ白雪

  忘るるまぞなき ゆく年月

  今こそ別れめ いざさらば

 

水泳とスキー

季節の体育行事として、夏の水浴と冬のスキー授業が楽しみだった。この他希望者には夏休みに林間学校があったが参加したことは無い。

都心にあった学校からは、水泳もスキー場も4キロ以上離れた場所だったが、往復徒歩であった。

その頃は学校にプールは無いので、夏の水浴・水泳は専ら川を利用することになる。川は流れがあり危険が伴うので、生徒の水遊びには先生たちも気苦労されたことだろう。大きな川である石狩川が学校の近くを流れていたが川遊びには適しなかったのだろう。(私は放課後、学友と石狩川に水泳にいって溺れかけたことがあった)

学校で行ったのは上川神社の奥の忠別川の浅い川辺だった。一日がかりの遠足兼水浴だが楽しい思い出となっている。

スキー場へは重いスキーを各自肩から提げて運んだのか、馬橇にでも運搬してもらったのか記憶に無いが、歩いて行った。

忠別川の橋を渡ると農村になり、美瑛川を渡ると田園地帯の冬景色が広がった。スキーに履き替えて伊の沢スキー場まで行く。ノドが乾けば小川の氷を割り、ストックの輪に雪を載せ流れにつけて水を含ませ吸い付く。当時はゲレンデといっても除雪・圧雪の整備もないしリフトなども無かった。一歩づつ登りるので時間も体力もいる。そのため何度も滑走はできない。外で食べるおにぎりは最高旨かった。遠くに旭川市街地が見えた。

 

 

あの思い出の歌

地域FMの△△ラジオ放送局の音楽番組をBGMにしてのんびり自宅の湯につかっていました。

その時流れたメロディーにパッと子供の頃が蘇りました。そのメロディーは、番組の節目に挿入するラジオ局のジングルでした。局の音のロゴマークのような効果をもつリズミカルで子供が好きそうな短いメロディーです。

私が国民学校4年生の頃、ある時担任の先生に伴われて10人ほどの学友と共に旭川陸軍病院に慰問に行きました。私たちは集会場で歌や寸劇を披露し、大勢の傷病兵に見てもらいました。寸劇の中で私はその頃親日派の支那人で有名だった人の役でした。台詞は思い出せないがその時歌ったのがこのメロディーだったのでした。

「トーア インメ トーア インメ 、 エンマンヤ エンマンヤ、 イニホンファンヤ イニホニファンヤ、 エンマンヤ エンマンヤ 」

誰から教わったのか、本当にこの歌詞が存在したのか、寸劇の挿入歌として支那語風に作られたものか謎のままですが、仲間の子供たちは支那生まれの歌だと思って歌っていました。

このFMラジオ局のジングルが戦時中に歌ったメロディーなのだからオリジナルではないが、引用するのであれば有名な歌に違いない。この歌の正体を知りたいとその後ずっと気になっていました。

局にメールで問い合わせをしてみたが返事は得られなかったので、自分で調べて見ようと考えました。

そして、インターネットで「メロディー検索」を思いついて色々試してみました。漸くにしてあるメロディー検索サイトを見つけました。表示されている鍵盤に記憶のメロディーを入力すると、お目当てのあの歌がヒットしました。長く気になっていた、歌の題名、元の歌詞の意味も歴史も一度にはっきり分かりました。動画も見ることが出来たのです。

元の歌は「フレール ジャック」と言い、フランスの民謡で17世紀頃から親しまれているものでした。広く海外に広まり、様々な替え歌になっていて、アメリカでは「アー ユー スリーピング?」として子供の好きな歌として有名だということも分かりスッキリした気分になりました。

 

中国語の歌詞がついたもの訳詩を見ると、私が歌った「トーア インメ・・・」ではありませんでした。