国民学校 小樽

転校

5年生の時、旭川市から小樽市手宮へ転居した。転居先は母の実家だ。転校は二度目なのだが嫌なものだ。

国鉄勤務だった父が軍指令により南方へ行ったのは昭和17年4月、住んでいた官舎から退去して、旭川市内宮下通り3丁目に仮住まいへ転居した。4年生の全期間を日章国民学校に通学できたが、転居先にも永く住めない事情があって小樽に移ったのだった。生活環境も学校や子供たちの様子も、以前に住んでいた札幌や旭川とはかなりの違いがあり、最初は戸惑うことが多かった。

家は二階建て別棟にも部屋があり、池のあるりっぱな庭もあった。周辺の住民は港で仕事をする人たちや魚加工の仕事をする人たちが多く、ざっくばらんで気さくだが、少々気も荒いといった感じだった。学校では校区内を分団に分けて低学年から高等科の高学年まで縦割りにして、地域活動を共にすることにしていた。地域活動として空襲に備え集団登下校、道路・共同水道の清掃、道路脇に防空壕を作った時には穴掘りの手伝い、赤岩の山までイタドリの葉を採取に行き乾燥させて学校に納めたりもした。その他は集団で遊ぶことが多く、特に手宮の岸壁、高島、遠くシクズシ(祝津)や赤岩までに行き、魚介類を取り栄養の補給を兼ね水泳、潜水などを教えられた。近くの手宮公園に栗取り行った。近所の子供たちは勉強はしないが、家の仕事の手伝いはきちんとしていた。年長のリーダーを見習い、いい集団だった。

 

手宮国民学校

学校は手宮の高台にあり、背後が傾斜地の為、校舎は階段状に増築されていた。港が良く見え、時々軍艦が入港すると艦種を考えたりした。学校の直ぐ近くに手宮公園があり、奥の高地に軍隊が駐屯していて高射砲などの装備がなされていた。そのため敵機の襲撃があれば、児童の被災もありうる位置にあった。通学時には防空頭巾を背に救急袋を肩に掛け、胸には名前、学年、血液型を記した胸当てを貼った服を着用していた。空襲に備えた退避訓練もあった。

6年生の頃は戦争が更に激化し、食料・物資の不足が加速していた。昼は梅干の日の丸、南瓜や芋を弁当にする時代になっていた。

衛生状況も悪化し、洟垂れ小僧の袖は汚く光り、髪の毛にシラミのたまごが連なり、セータの目に衣シラミが出入りする子も大勢居た。

運動会、遠足、学芸会などが催された記憶は無い。唯一、小樽築港駅まで汽車に乗り岩石の多い海岸に、水泳の講習のために行った思い出がある。

手宮国民学校は明治31年の創期だという、明治42年生まれの母もこの手宮尋常高等小学校の卒業生だった。

実は我が手宮国民学校の校歌の2番の歌詞に手宮古代文字を郷土の誇りとして入っていた。学校からそう遠くない所にその洞窟があった。

『仰ぐも遠き 昔より  石に残せる 手宮文字  そのとこしえに 朽ちもせぬ

心を己が心にて  わが日の本のよき民と  勅語のままに学ぶなり』

現在の手宮小学校の校歌はどう変わったのかは知らない。

手宮古代文字は後に小樽市が貴重な文化財として手宮洞窟保存館を建てている。

 

校庭と校舎

手宮の山の中腹に校舎は建っていた。家の裏口から出て坂道を行くと石垣のある坂道に突き当たる。石垣の間から清水が湧き出る所があり、通学途中の子供も近所の人も飲み水にしていた。湧き水の真上が校庭である。

校庭からは手宮全体が見え小樽港が開けていた。数基あった棒登りのテッペンから見下ろすとさらによく見えた。校庭の奥の方には1本の銀杏の大木があったと思う。冬はこの木の前に雪の塔を作り、尖塔に立てた旗を取り合う競技をした。

校庭に沿って屋内運動場があった。

山の中腹にある特徴のある美しい校舎は遠くからもよく見えた。子供の数の多い時代だったが校舎の増築する平地が無いので階段状に敷地を造成して校舎を建てた。新校舎へは急斜面に沿って階段の廊下で繋がっていた。私たちの頃は、階段状の校舎棟が三棟だったと思う。最上棟の出口から外へ出ると、手宮公園に沿った道に出る。公園には栗の木が多いので秋は楽しみのある帰り道となった。

物不足の当時のこと、思い出に残る画像記録が無いのが残念なことだ。

校舎は昭和38年に全焼した。同じ場所に再建された、子供の数は当時とは格段に減少した今日、ここも学校統合の計画があるという。

 

 

 

 

 

夏休み

子供にとって夏休みは何が無くても楽しみなもの。宿題としては夏休み絵日記、工作など殆ど現在と変わらない。

変わった宿題だったのは「イタドリの葉」採取だ。山に自生する「イタドリ」(われわれはドンガイと呼んだ)の葉を摘んで背負って家に持ち帰り、荒縄に挟むかムシロに広げるかして乾燥させる。乾燥したイタドリの葉を休み明けに学校に持っていく。煙草の代用品の原料になると教えられた。分団の子供たちが連れ立ってオタモイ海岸へ遠出して泳ぎに行った帰りに採取した。学校の運動場は多量の干した葉が積まれた。

 

毎日海に行くので、どの子供も真っ黒に日焼けする。背中の皮膚は剥けてしまう。日焼けは=健康と思われていた当時のこと、休み明け教室では「クロンボ大会」と命名した日焼けの黒さを競う会が催もあった。

 

配給券

戦争が敗退に転じたことは日常生活の上でもひしひしと感じられるほどになってきた。

子供の成長に伴う衣服や履物が売ってない。衣服はまだ兄弟間で遣り繰りしたり、継ぎはぎでも間に合わすことが出来るが、履物は夏には下駄か裸足でも我慢できても冬は難しい。丁度そんな頃、ゴム長靴を学級に購入券の配給があった。2枚くらいだったか、希望者が多く、さまざま議論の末抽選で決めた。

学校とは無関係だが配給券の思い出をもう一つ。

6年生の後期に、私は「肋膜炎」に罹った。今頃は「肋膜炎」など耳にする病名でないが、熱があり、呼吸をすると胸脇に疼痛が走る。水が溜まるので、針を刺し注射筒で吸い取る。治療には栄養をつけることが一番といわれたが、満足な食料の無い時代のこと母の悩みの種だった。長引けば身体検査で中学校入学も出来なくなる。医者に交渉してやっとバターの購入券を出してもらった。

貴重品のバターが薬の役を奏したのか1月ほどで回復した。

 

戦時の勉強

本州の都市に米軍敵機の爆撃投下がり、北海道もいずれその時があるとの考えで、学校では時々避難訓練が行われた。サイレンが鳴ると、防空頭巾を被り、救急袋を肩にかける。退避途中に「爆弾投下」の声がかかると子供たちは一斉に両手で目と耳を押さえ口を開き地面に伏せる。

体操の時間には「手旗信号」を習った。覚えると面白い。校庭の端と端に分かれた子供が互いに信号を送りあえるようになった。「棒登り」も「雪中騎馬戦」も面白かった。

唱歌の時間には敵機の音を聞き分ける音感教育があり、グラマンだ、ロッキードだ、B29だなどと言っていた。

図画の時間では軍艦の絵を書くことが多かった。小樽港には軍艦がよく入港していし、水上飛行機の飛行・着水もよくあった。煤田山(バイテンヤマ=手宮公園のある山)山頂からのサーチライト照射の絵なども描いた。絵は写生ではなく見た記憶で描いた。工作の時間では模型飛行機を教室で作り、校庭で飛ばした。

国民学校初等科5・6年生で習得した教科と科目は次の通りだった。

国民科{修身、国語、国史、地理}、 理数科{算数、理科}、 体錬科{体操、武道}、 芸能科{音楽、習字、図画、工作

 

国民学校に変わってからは通知箋は優・良・可表記であった。