おたまじゃくし取り

「オタマジャクシの卵を見つけた」と、友達に聞くと学校から帰ると、すぐ空き缶を持って探しに行く。湿け地の水辺には寒天に黒点のある卵が沢山見つかる。卵もオタマジャクシも手ですくい、家に持ち帰る。金魚鉢で発育の経過を楽しみながら飼う。教室に持ってくる子も居て、皆で飼育した。

 

川遊び

4・5歳の頃、家(遠軽町)からあまり遠くないところに綺麗な湧別川があった。夏、近所の子供たちは親に連れられ、魚をすくったり、川に入ったりした。山の麓の小さな水辺では、石の下にザリガニが沢山いて捕らえて遊んだ。

国民学校3・4年生の頃(旭川市)は、学校の遠足のとき、忠別川で水着になって水遊びをしたことがあった。忠別川には秋になると鮭が遡上してくるのだが、分団の子供たちで上川神社近くの橋の上から見られるので何回も見に行った。石狩川の旭橋近くで砂利採取の跡がプール状になっていて、立ち入り禁止だったかもしれないが子供たちの水遊び場となった。平らな小石で水きりの数を競い合った。そこの深水で私は溺れた。

 

栗拾い

家(小樽市)の前の坂を上がっていくと、200m先が手宮公園だ。広い公園には栗の大木が何本もあり、秋には沢山実をつけた。

実は小ぶりだが、菓子の無い時勢でもあり、栗は子供が得られるご馳走だった。強風のあった翌朝は挙って公園に駆けつけた。落ちているイガは靴でこじ開け、高所のイガには石を投げつけて栗を取った。公園奥の高い方には陸軍が駐屯していて、近寄ることは禁止されていた。

 

魚釣り

釣堀は無論のこと磯釣りも川釣りもしたことが無い。魚釣りといえば、小樽港の岸壁だけ。何時も何かしら釣れるので、近所の子供たちが、簡単な釣具を持って、近くの手宮の岸壁に行った。小鯖はよく釣れた。魚も配給の時代では、子供の釣た小魚も大事な食の糧となったのだ。何時釣れるか分からないのをジーッと待つ、魚釣りがどうも好きになれなかった。

 

水泳

戦争時の学校では分団という地域集団が組織されていて、1年生から高等科の生徒までが下校後も集団活動をしていた。ガキどもの集団なのだが、いろいろな事を遊びながら教わった。

赤岩や祝津、高島の浜へ遠足出することもあったが、多くは家から近い港内手宮にある巨大な桟橋の辺りだった。今思えば危険な所で子供が立ち入るようなところではなかった。年長の子は桟橋の基部に潜り、貝・うに・ホヤなどを採り、焚き火で焼いて食べた。水着は白晒しの6尺、水中眼鏡、潜りの上手な子は貝などを採る金属棒も持参する。

 

すずめ捕り

昔はどの家にも笊の大きいのがあった。その笊をちょっと借りて、地面に細紐をつけた棒で立てかけ、米粒を撒いて物陰に潜み、すずめの飛来を待つ。待てども来ない。ようよう来ても紐を引くタイミングが上手くいかない。手はずはいい筈なのだが成功したことはない。わが家の猫は時々すずめを捕ってくるというのに。

 

七夕のろうそく出せ

七夕は子供のお祭りだ。子供たちは昼間の間に近くの川辺で柳の木を切り、自分の家の前に願い事を書いた短冊をつけて飾る。夕方薄暗くなった頃には浴衣を着て提灯を手にした近所の子供が5・6人集まり、年長者を中心に回り順を決める。

男の子はこの日のために、空き缶に釘で穴を開け、針金で持ち手を作り手製の缶提灯を持ってくる。

皆が大きな声で唄いながら、家々を回りローソクを貰らい歩く。「今年ゃ 豊年 七夕祭り おおいはいわおー 」の前歌に続き「ろーそく だーせ だーせいよー だーさないと かちゃくぞ おまけに 喰いつくぞ」

各家ではローソクや飴などを準備して、子供の来るのを待っていてくれる。

歌の内容は恐喝めいて穏やかなものではないがハローウィンの北海道バージョンで微笑ましいものだ。一巡して終り、子供たちは袋一杯になった貰い物を見せ合ったて喜んだ。その頃の私は他の家に物貰いに行くような気がして、恥ずかしかった記憶がある。翌日は七夕飾りの柳はまた川に流しに行き、楽しかった七夕が終わる。

 

パチンコ

遠くの的に当てたいという気持ちは幼い時から始まる。小石をぶつけたり、木の端を抛ったりした。

二またパチンコを作り、友達と遊んだ。木の枝の二またを使い、Y字の枝端に括り付けた生ゴムのベルトの中央部に玉を包む革をつけると出来上がり。取手になる部位とゴムの台になる部分には、力が入るので枝は丈夫でなければならない。小石を玉にして、力いっぱい引っ張り放つとかなりの威力がある。危険がともなうが面白さも大きい。野良猫を狙ったり、所かまわず、パチンコを使っては叱られた。

 

初泳ぎ

学校行事として、夏季に2・3度水泳の日があった。プールのある国民学校は無いので、旭川に居た頃は川で、小樽に移ってからは海へ、遠足のように一日がかりで行った。水泳の手ほどきは受けても短時間で習得できるものではなく、水遊びの範疇でしかない。手宮駅から汽車に乗って行く熊臼海岸は石が多く海遊びにもいいところだった。

泳げるようになったのは国民学校5年生時、手宮の高架桟橋の付け根あたりの海だった。この周りは結構な深さがあり、春先には鰊舟が荷揚げする場所でもある。どういうわけか、岸壁から15mほど先に足がとどく小さな岩礁があり、さほど水泳のできない子でも年上の子に叱咤激励され、岸壁から死に物狂いで手足をばたつかせたどり着かせた。やがて犬掻き、平泳ぎも見よう見まねでどうにか泳げるようになっていった。

「初泳ぎ」という言葉には、季節に先駆けてその年最初に泳ぐことを言い、初泳ぎの早さを自慢しあった。

 

飛行機作り

どの時代の子供も飛行機は憧れだ。紙飛行を折って、飛行距離や飛行時間を競った。

国民学校5・6年生の頃は模型飛行作りに熱中した。初めは学校の工作の授業で作った、竹ヒゴを蝋燭の火で暖めて曲げ翼を作り、細い棒の胴体に付け、紙を張った極シンプルなものだった。

次は模型飛行の店から、セット物の材料を買って組み立てるのもの。「A-1」だったか。翼には杉材の片を骨材とし、胴体、脚体がある、ゴム糸起動の飛行機を何機か作った。飛ばすのも楽しいが、作るのが勝った。最後はもう一つ上の模型を作ったが、エンジン付きの飛行機までは手が届かぬ内に終戦となり、模型飛行機作りの時代は終わった。

 

舟作り

低学年の頃、盥に水を張り、作った舟で遊んだ。小型の舟の後部に樟脳の小片を乗せると暫くすると動き回るものだ。何がどう作用するのか分からなくても、子供たちは歓声を上げ夢中になる。

木片を削り、軍艦や飛行機作りに挑戦した。特にゴム紐動力の潜水艦は水中に潜りながら進めるよう名物を作った記憶がある。

雑誌「少年倶楽部」で椛島勝一画伯の戦闘画が大人気だった頃だ。勇猛果敢の絵に子供も高揚させられ、船や飛行機作りに懸命になったのかもしれない。

 

冬の坂道すべり

国民学校高学年の頃は小樽市手宮に住んでいた。家の前が坂道で上がっていくと手宮公園さらに上がると稲荷神社に至る、700mほどもある直線の幹線道路である。途中手宮国民学校への交差点を過ぎると急勾配となる。当時はこの坂道が冬の格好の遊び場であった。家の前の道は、人と時折馬橇が通る程度だ。

男の子たちは荷物運搬用の木製の橇で滑る。小ぶりの橇では腹ばいになり、大きめの橇では2・3人が腰掛て滑る。リュウジュ、ボッブスレーのごとく、雪煙をたてながら、通行人に向かって「去れー 去れー」と、我がもので突っ走る。危険この上ないが、大きな怪我をしたとは聞かなかった。当然、学校からは厳しく禁じられていたはずだ。

女の子と低学年の男の子は、竹スキーで滑った。幅4cm、乗る部分の長さ30cmほどで先端が直角に曲げられたものである。

穴を開けた両方の先端に丈夫な紐を通し、首に長さを調節して掛け、坂道ではこの紐を操りながら巧みに滑走する。

加速するとかなりの速度となり、危険性はある。聞けば、母親もこの坂道で滑ったそうだが、下駄に刃がついたものだったという。

 

丸太置き場の遊び場

未だ学齢前、北見市近くの遠軽に住んでいた頃のこと。

駅近くには山から搬送された丸太の大きな貯木場があった。近くの人たちはこの丸太のガンビ剥きをして、炊きつけとしていた。中には皮剥ぎ専用の鉄器持参で、剥いた皮を背負って持ち帰るのもいた。咎められることもないおおらかな時代とも言える。

住居の鉄道官舎は駅の近くにあったので、昼間はこの貯木場が子供の遊び場ともなった。うず高く積み上げられた丸太を登り降りしたり、かくれんぼや鬼ごっこはスリル満点で応えられない遊園地気分だ。しかし、大人に見つかればしかられる。親には内緒の遊び場だった。

 

虫取り

多くの男の子はトンボ、蝶、蝉、クワガタなどの昆虫取りをしている。それは今日も同じだろう。

私は鳴く虫取りが好きだった。学齢前に父について行って、キリギリスを捕ったのが始まり。夏北海道の至る所の草むらではキリギリスが鳴いている。鳴いている場所にそっと近寄り、手で捕まえることもあるが、大抵は笹竹の先に針金を着け、これにネギを挿した物を近づけて獲っていた。コウロギは庭の石の下、軒の下などで見つけるが、家に居ても鳴き声が聞こえるので、特に飼うことはしなかった。スズムシは何年も家で飼い続けた。

 

雪遊び

初雪が降ると、子供たちは早く根雪になって沢山積もるのを楽しみにする。

年齢により、雪との遊びも変わってくる。雪だるまは降り始めの頃の湿り雪を転がすと直ぐ出来るが黒土が付く。目鼻には石炭を使った。

10歳頃になると、家の周りで雪の城とか雪山に横穴を掘り自分達だけの居場所を作って嬉しがっていた。雪山の端に出来た氷や軒下に出来る長いツララを折って来て、雪城に突き立てたり飾りたてたりする。自分達の城を根城にしての雪合戦だ。城攻撃などでは折角作った城も壊されて、悔しい思も味わう。

雪面に落とし穴を作る悪戯もしたが、旨く引っ掛かるのは希で、大抵はバレてしまうのが多かった。

 

雪解け水遊び

長い冬がようよう終わりを告げ、見る間に雪解けが始まると、子供も春が待ち遠しく思う。

道路わきの雪解け水が、泥の溝に流れ出し、小さな流れや水溜りができる。流れを思うように溜めたり、流したりするのは、この季節のたまらない楽しい遊びだ。結果的には水はけを良くして、グジャグジャ道路を早く乾いた路面にすることにもなる。今では道路は舗装になってしまい、泥の溝も出来ないが、雪解けの時期になると必ず思い出す、水流しだ。

 

ほうずき

ホウズキが色づくと女の子は早く塾さないかと袋を少し破いて覗く。赤い実を顔に見立て千代紙の着物を着せ人形遊びをすることもあるが、多くは赤く熟した実を丁寧に揉み解し、楊枝を使って中身を掻き出し袋だけにする。水洗いして、漸く口に入れる、苦味のある小ぶりの風船は暫く口の中の玩具となる。大きな音で上手に鳴らすのにはちょっとコツがいるので、小さな子は年長の子に教わる。そして上手に鳴らせるようになると、得意になって鳴らす。

初夏になると金魚屋が金魚の入った桶を担い「きんぎょー きんぎょー」の売り声で町にくる。勿論子供がいち早く集まる。金魚の他、金魚鉢、藻、海ホウズキも持っくる。海ホウズキは着色したのか紅色で塊になっいる、塊から鋏で切り離し、空気穴を開けてくれた。女の子は競って鳴らす。一通り鳴らし終わると大事に紙に挟んでしまう。乾いてしまっても口に入れると直ぐに元に戻り、楽しみは続いた。

 

ヤニとり

桜の幹に出来る樹脂(ヤニ)も子供は遊びの種とする。柔かそうなのを採り、唾をつけ親指と人差し指を使って糊状にし、指をパッと開き空に放つと真綿を引き伸ばしたような細い繊維が飛び出す。この綿状のものを左の小指に掛け続ける。根気よく続けると小指は繭のようになる。繭の大きさを競う、たわいの無いものだが自然も遊びの中に取り込んでしまう。

 

お祭り見物

札幌祭り (現在は北海道神宮祭)

主な通りに祭りの幟が立ち、各家では軒先に紙製サクラの飾りを軒先に挿した。

学校は午前中、 見世物小屋が創成川の上に仮設テントが張られていた。

犬・猿芝居、人形芝居、ゲテモノ、オートバイ曲乗り、大サーカスなど。

子ども相手の店ではハッカパイプ、紙筒の吹き矢、日光写真、拡大画像描器、面、紙火薬式ピストル、くじ、紙の花輪、生きたヒヨコ、ニッキ、延し烏賊。屋台ではこんにゃく味噌おでんの店も。

 

旭川市 招魂祭 (現在護国神社祭)

師団道路と呼ばれていた駅前通りと平行する6・7丁目通りは国民学校への通学道路でいつもは静かな通りなのだが、祭りの3日間、市内はもとより近郊からも大勢の人出があり大変な賑わいとなる。見世物小屋が軒を連ね、出店が並ぶ。猿芝居は時々客寄せのため天幕を上げ、サワリを見せる。小遣いの使い方は自由だが多くは無いので、何を買うか、何を食べるか、何を見るか大いに迷う、それも祭りの楽しみの一つなのだ。一番奥には大サーカスだ、絵看板見てジンタを聞くとドキドキしてしまう。テントの近くにはライオンなど動物の檻も見える。

 

正月の遊び

お正月は子供心に改まった気持ちになる。服も何時もと違う晴れ着だ。お年玉を貰い、何時もは遊んでくれない大人も一緒になって、正月を楽しんだ。

「かるた」は時勢を反映したものから伝統色のものまで色々あった。一番好きなのが「犬棒かるた」で武井武雄作のカルタは70年を経ても未だに手元にあり、私の宝物である。かるた取りには絵札を全部ひろげるものと2チーム対抗があり、絵札の残りが少なくなると、取り手のミスを誘うようにする。ミスをオテッペといい、罰則に従うこととなる。

「すごろく」江戸から東海道を京に行くのが好きだった。サイコロの目により、休んだり振り出しに戻ったり、行きつ戻りつする道中旅が楽しかった。目隠しをして「福笑い」。

「トランプ」のゲームは子供も大人も最高に盛り上がりとなる。

「羽子板」は女の子が中心となり、友達や家族で羽根突きの競い合いをする。羽根を落とすと顔に墨でヒゲや目に○がつけられ、笑いを伴う冬の外遊びだ。

「百人一首」 北海道特有の「下の句百人一首」は正月に限らず、長い冬の間の娯楽と交流の最たるもので、かるた会は各家を持ち回りして楽しんだ。取り手の派手なパフォーマンスで盛り上がる。青年男女の懇親の場が少なかった時代だから、特別の楽しみだったのだろう。「乙女の姿」が最も人気の札なのもうなずける。

「罰ゲーム」多人数参加のゲームで勝敗が決まると、次に「罰ゲーム」で最後の盛り上がる。勝った順に手を重ね、ビリが最上段になる。チャンピオンが底から重なった手を思い切り叩く。叩かれないように素早く逃げるが、ノロは痛い目にあう。

タイミングの加減で、最上段の手が叩かれるとは限らない。

 

スキー

道産子は学齢前にスキーの初体験をするのが多いと思う。初めは、長さ50cm程度で、ベルトが一本ついたもので、喜びそうな色つきのスキーだ。へっぴり腰で家の付近で歩いたり、積み上げた小さな坂で滑る。小学校入学の頃は札幌駅の北東部にあった鉄道官舎に住んでいたが、近くに大きな庭のあるお屋敷(北7東7、明治20年建築、灰野邸か)があり、築山はスキーや橇すべりをする子供で賑わった。その頃のスキー締め具は皮製バンドで後部は折り畳み金具で締める形だ、靴はゴム長かゴム製のスキー靴だ。

国民学校も中学年になると郊外のスキー遠足があるのだが、旭川市の常盤公園近くの学校から4kmほどもある伊ノ沢スキー場まで歩いて行った。スキーは各自持参したのか纏めて輸送してくれたのか記憶が無い。スキー場といってもリフトなどは無い時代であるから、先ずは自力で登ることから始まるのだが、登る時間にくらべ滑るのはあっと言う間だ。喉が渇けばストックの輪に雪を盛り小川に浸し、その雪を吸って呑む。

家の近くの坂に滑りに行くときはスキーを履いたまま雪道路を行く。馬橇が通れば摑まるだが、しかる小父さもいるが大抵は黙認してくれる。その当時は農村も街もまだ輸送は馬が主だった。まだ馬糞は回収することが無かったので、雪道のところどころに馬糞があるのだが、スキーはその上に来ると滑らなくなるので危険もともなう。摑まり滑りはラクチンで楽しい。

身長の伸びの早い子供に、丁度いいスキーを時々買い与える親はそう居ない。兄弟が多い時代なのでお下がりは普通だ。スキーが折れたときには折れた部分をブリキで補修してまで使った時代だった。締め具はカンダハーが使われるようになった。

5年生の時、先生と中学生が同伴の上、友達数人でカムイ山に行った。まだスキー場で無い頃で、雪山登山をして一回だけの降下である。はじめての深雪スキーに戸惑いもあったがどうにか下山した感激はいまだに残っている。