中学校 小樽

敗戦の年に中学生

硫黄島守備隊が全滅し、いよいよ本土決戦に備え、隣組でも火消しや竹槍の訓練が行われるようになった。

手宮国民学校から中学校へ進学した児童が何人だったのだろう、そう多くは無かった。高等科を経て就職するのが多かった。

手宮地区の学区は長橋にある市立小樽中学校と決まっていたのか、皆同じ学校だった。家から中学校までは3キロ以上もあり、途中山坂を超えなければならなかった。住宅もまばらで途中の道には鰊の大きな干し場があり身欠き鰊の匂いが辺りに充満していた。

函館本線の鉄道軌道を背にした学校は、校舎も校庭も大きく立派に見えた。校舎内には国民学校には無かった講堂があり、武具の揃った武道館もあった。他に水泳プールがあり、国民学校と比べ格段の差を感じた。

 

通信簿

小学校から始まり中学校、高校にでも、学期末には通知箋とか通信簿、成績通知箋などの名称のモノを担任の教師から渡される。

この中学校では成績通信簿だった。学業成績は「優・良・可」制である。また、身体検査・出席状況がある、普通の様式だ。

通信簿は保証人(親など)の閲覧印のほか出身国民学校長の閲覧印も本人が持参のうえ貰って来るようになっていました。

 

 

学習の概要

国民学校では、全教科を担任の先生により教えられていたが。中学は学習科目ごとの専門教師が講師がいることで、中学は上級なのだと思った。

学習科目は修身、国語、歴史、地理、数学、物象、生物、音楽、書道、図画、工作、修練。体錬科には体操のほか武道、教練が加わった。外国語として英語があった。

特に驚いたのは、武道と教練であった。武道館への出入りから始まり、精神訓話、武具の取り扱いなどの作法から始まった。教練は配属軍人により軍隊式に厳しく鍛えられたことは覚えている。

脛にゲートルを巻き、上級生にも挙手をする軍国時代の中学1年生だった。

 

学習科目を羅列したが、教室で学習の記憶が薄れてしまった。当時、英語は敵国語として、英語から帰化した言葉さえ使えない時代のこと、教科書がどのような物だったのか思い出せないのが残念だ。ジス・イズ・ア・ペンだったのだろうか。

 

禁断の遊び

当時、屋外であるがプールのある中学校は道内では皆無か極希少の存在と思う。そのプールに新中学生は興味深々であり、中には抗しきれずに厚い板をどう工面したのかプールに浮かせ、自分もその板の上に乗り、手漕ぎで乗り回す者もでた。転覆するとなると事故にもつながるので、厳重禁止であったであろうと思う。春の勇者は一躍新入学生の間で有名人となった。