続 思い出の絵本と作家

以前、このHPに子供の頃に読んだ絵本について下記のように書いたことがある。

「 幼児の頃は親や祖父から絵本を買ってもらった。その中で、今なお忘れられない大切な絵本がある。

それは祖父から貰った武井武雄作の二冊組の絵本で、日本人の初老の紳士が世界めぐり一人旅をする話だ。主人公の風貌が祖父に良く似ていたこと、海外の珍しい風景・民族は勿論のこと、世界の言葉が組み込まれていたこと、優しい語り口がいいこと、絵が美しかったこと、などで大きくなるまで、私の大事な宝物だった。残念ながら引越しの時紛失してしまった。今日でも忘れがたく、作者の作品記録や出版された作品、記念館などで調べているがもう現存していないのかもしれない 。」

先の文を書いて3年ほど後、画像検索で絵本が存在するのを知りました。主に戦前に発行されていた児童・女性向けの絵本、雑誌などの希少本を扱うお店のブログでした。

掲載されていた古本の表紙の画像の中に、私の宝物だったあの絵本がありました。「岸辺園長の世界旅行1」でした。私はこのめぐり合いに大喜びしました。続編の2は残念ながらありませんでした。

(添付の絵は写真から描きなおしたもので、画像をクリックすると拡大します)

世界には様々な国があり、景色、人の暮らし、言葉など、どのページも珍しくわくわくしながら何度も何度も読み返した絵本でした。

旅行記の1を思いしながらたどって見ましょう。船旅の最初の寄港地はフィリッピンだったかな。次はシンガポールで子供たちが椅子を高く積み上げてマンゴスチンの果実を取っていた。モナコのお城の中にある博物館で大きなカニを見た。そのカニは日本から来たといっていた。フランスではパリの小学校を訪ね授業の様子を見学した。スイスのエーデルワイスの咲く丘でワンダーフォーゲルの少年と話をした。ベルギーでは小便小僧のお話、その先は忘れたがシベリア鉄道に乗り、満州の赤い夕日を背景に列車の最後部から豚を眺める絵があった。支那では京劇風のメイクをした数人の芸人の高足踊りを見物。

世界旅行の続編2では甲板から太平洋上の日の出を見ていると、船の近くで鯨が潮を吹くのを見て驚く。アメリカのネバダ州では子供たちと雪玉を投げあう。ナイヤガラ瀑布を遊覧船で見物する。帰国して和服でくつろぎ、久しぶりに見る庭には桔梗の花が咲いていた。

挨拶や簡単な会話が訪れた国々の言葉で書いてあったので、その言葉を覚えるも楽しかった。

語り口調はこんな具合でした。(この文は絵本を思い出しながら書いてみました)

ワタクシガナ ネバダ ノ カウヱンデ ユキゲシキ ヲ ミナガラ サンポ シテ ヰマシタラ チヒサイ コドモタチガナ ユキノタマ ヲ ナゲツケテ キマシタ ワタクシモナ ナゲカエシマシタヨ モッテイタ カウモリガサ ヲ スコシ ヒロゲナガラ ユキダマ ヲ ヨケマシタガ アシ ニ アタリマシタ 

 ワタクシガナ 「ヒャーン」 ト ナイタ フリヲシマシタラナ コドモタチガ カケヨッテキテ 「パードン・ミー、パードン・ミー」 ト イイマシタカラ ワタクシハナ ニッコリ シテ アクシュヲシテ ヤリマシタヨ ハイ

調べてみるとこの絵本は1933年に鈴木仁成堂から発行され、1冊30銭だったそうです。この1933年は私が生まれた年ですから、80年前に発行された絵本です。

現在この絵本は31,500円の値が付いていました。欲しいのは山々ですが買えません。

絵を描いたのは絵本作家として有名な武井武雄さんです。版画、童話、詩、玩具、その他多岐にわたる創作をする芸術家です。私は退職後、岡谷市にある「イルフ童画館」を訪れましたが、その時は心底感激しました。

そして魅力的な文章を書いた方は、本の題名にある岸辺園長さん。

岸辺園長とは誰なのか。調べてみました。兵庫県での小学校の教師を経て、童話の語り、遊戯指導の研究をつづけ、上京師範講師になり、自宅を園舎にして幼稚園を始めた。児童教育の研究と実践を続け、日本の幼稚園の基礎づくりに尽力された児童教育者です。私は岸辺福雄さん、この園長が文章を書いたであろうと推測しました。大正末から昭和初期にモダンで自由な作品で知られる児童向けの本「コドモノクニ」の有名作家の一人です。園長は4回欧米を視察されています。

岸辺園長は昭和33年に故人となりましたが、岸辺幼稚園は今も引き継がれているそうです。

絵本に出てくる白髪の紳士は当時50歳代後半の岸辺園長でしょう。現在は海外旅行も普通の時代で、自由な服装ですが、当時はいつもスーツにネクタイをしていました。

明治・大正・昭和初期の児童教育者、口演童話家である岸辺福雄さんの著書は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに9冊保存されているのでパソコンで閲覧が可能です。

拡大作画器

祭りの玩具屋台で似顔絵や戦闘場面・丹下左膳などを上手に描くオジサンがいて、大勢の人が巧みな技に感心して見ていた。

木の板で骨組みした器具の手元にある先端で小さなブロマイドの輪郭をなぞると、器具のもう一方の端に置いた大きな画用紙に拡大された線が描ける、というものだ。アウトラインを描き終わると、木炭で濃淡をつけ立体的に書き込み、手元の小さなブロマイドが大きな絵に仕上がるのだ。見ている内に、その拡大作画器があれば、自分でも簡単に丹下左膳や戦闘機が描ける様な気になってしまう。買って家に帰って試してみるのだが、そうは思うようには行かない。その内に諦めてしまう、夢のような器具も壊れてしまう。

糸巻きタンク

ミシン糸の使い終わった木製の糸巻で戦車を作り、走らせて遊んだ。

戦時中衣料品も配給の頃では、家でミシン掛けをするほどの生地もなく、空の糸巻きも貴重品だ。

糸巻きの両側の出っ張りに小刀で山形に刻み目をつけ、滑り止め効果を計る。糸巻きの中穴に数本の輪ゴムを通し、一方を短い木を挿み止める。もう一方には長い割り箸を挟む。長い箸の軸を中心に指で回す、ゴムの戻り回転が動力になる。巻き終って、畳の上に置くと勢いよく走り出す

初めてのジャズ

田舎に住んでいた4歳の時、弟が生まれて、私は暫くの間小樽市にある母の実家に預けられた。

祖父母の家は大きかったので走り回っていたが、ある時二階にポータブル蓄音機を見つけた。誰かが円盤に乗っていたレコードのかけ方を教えてくれた。それからは毎日、朝から一日中そのレコードを掛け通した。家にあるレコードは童謡とかクラシックばかりだったので、この音色がとても気持ちよかったのだろう。あまりのハマリ様に祖父母は呆れ、とうとうそのレコードは何処かに隠されてしまった。

そして、長い月日を経た戦後、私は高校3年生になった。NHKラジオに河野隆次さんが解説するジャズの定期番組があり、その番組「スイング・クラブ」の中で流れたのがあの幼児の時夢中で聞いたミュージックだった。

曲名が「Dardanella」であることを始めて知った。しかし、レコードが欲しくても手に入らない時代だった。

それからまた時間を経て、74歳になってから、iTunes Storeでこの曲に巡りあうことが出来た。あれから70年にしてまた何時でも好きなときに懐かしいJAZZが聞けるようになった。

男の子の室内遊戯

子供頃の遊びは外遊び殆どで、友達の家に上がりこんで遊んだ記憶は少なく、せいぜい縁側くらいだった。

自分で作った「紙相撲」とか「五目並べ」・「将棋の駒落とし」・「挿み将棋」だ。遊びに行った家で「コリントゲーム」をしたが、珍しさもあって楽しかった。

あや取り

子供の遊びには流行があり、あやとりが流行ると、女の子は輪にした紐を首から下げていて、何時でも遊べるようにしている。紐は1.2mほどで太めの毛糸の両端を結んだものだ。

遊び方は二人で遊ぶときは、初め一人が両手首に輪にして紐を掛け、輪を中指で取り形を作る、相手がその形を受けて変形させて相手に返す。変形のパターンが幾種類もあるので渡したり受けたりするのが楽しい。型が崩れたり結びが出来れば原因を作った方がアウトとなる。

一人遊びとしては紐を両手首に掛けてからはじめるもの、親指と小指に掛けてはじめるものなどあり、両指を使って紐を掛けたり外したりしながら、様々な形を作る。例えば 朝顔 さかずき 山 川 ほうき 和バサミ 鉄橋 はしご、前掛け 等。その他 指きり 首切り 一人綾取りなど 紐一本でも十分に遊ぶことが出来る。

オハジキ

50円硬貨大のガラス製の遊び道具「オハジキ」を使い、女の子が3・4人で遊びます。

縁側など平らな所に持ち寄ったオハジキをパラッと広げ、目指すオハジキの間を「ここ切ってキンセ」と言いながら小指で横切り、自分のオハジキを指で弾いて当てる。旨く当たれば自分のものとなる。目標から外れたり、他のオハジキに触れれば次の者に交代する。広げたオハジキが取り尽くした時一ゲーム終了。続けるときはそれぞれがオハジキをまた同数出し合い続ける。

別のオハジキ遊び

車座になって座り一枚の座布団を膝を隠すように凹になるように置き、出し合ったオハジキをじゃんけんで勝った者が一掴みし返して甲に一度乗せ空に上げて招くようにして受ける。受ける時落せばアウトになる。

沢山取ろうとすると最後に受け損ないアウトになるが成功すると沢山取ることができる。かけひきが楽しい。

ほかに何通りもの遊び方があった。

小学校入学時に教科書を本屋で買い求めるのだが、その時箱入りの教材もあり、教材の中にオハジキも入っていたように思います。

お手玉

お手玉は女の子の代表的な遊びで、昔から代々受け継がれたものかも知れない。お手玉とも言うが、子供達は普通「あや」と言っていた。我が家では曾ばあさんから、お手玉の作り方から教わった。作り方のあらまし、無地と柄物のモスリンとか木綿、ちりめんなどの布切れ、5×10cmの短冊4枚で1個を縫い合わせ、最後に小豆を50gと足袋のコハゼか鈴を入れて閉じる。10個ほど作る。出来上がり具合と模様など自分の氣にいったものを決めている。形は座布団型の他俵型もある。

一人遊びから数人で遊び、遊び方は様々で、易しいものから難度の高いものまで、お手玉歌により技が変わる。

一人遊び、「トコテン」。利き手の甲にお手玉一個を4回弾ませ、「トコテン」の歌声で掌で1回受け、甲に戻る。(手招きの動作)。次も4回弾ませて2回トコテンをする。以下トコテンの回数を増やしていくが回数が多くなるとミスが起きやすい。4回弾ませるところにも歌があったのではないかと思うが思い出せない。

二人遊び。「たんたん たいこ まめだいこ」お手玉を2個、片方の利き手だけで交互に空中に抛り受けするのを歌にあわせ繰り返す。他には、3個用いて歌の途中で相手に1個渡すものや、ジャグリング風に2個と3個を取り混ぜるものも有る。

「にわかにどよめく ひとのこえ」この歌のときは歌の末部で1個を高く放り上げ、その短時間内で2個を回転させるのもある。

車座に座ってじっくり取り組む遊びとして、10個ほど(片手で漸く全部掴めるほどの数)を使い、一人づつ演じる。歌は「お一つ お二つ お三つ・・・おみなかやして おってんぱらり」、次は2個づつ「おじょくんな おじょくんな・・じょくんな」、他に「びきせんね からせんね」、「あんめ」「おっかえし」「ここだし ばった」などが歌とともに様々な取り方が続く。

お手玉は「竹割り」とともに冬の間、学校で流行り、運動場などで壁際に、女児童が座って夢中になって楽しんでいた。

カルメ焼き

終戦後食糧難の最中、食糧の代替品として米軍払下げの砂糖が配給されていた頃。

百貨店でもカルメ焼きの実演販売をしていた。練炭コンロの上に金属製のシャモジを乗せ、ザラメを溶かし、太めの棒でなぞり、暫くしてフワーと膨らますのだ。辺りには砂糖の焼けた甘い匂いが漂う。

巧みな技と売り言葉で膨らし粉は大変な売れ行きだった。家で早速試してみたが、なかなか見てきた様には行かなかったが、何度も試行の内に、どうにかそれらしいものは出来るようになった。遊びとはいえないが楽しいものだった。膨らます種となる秘薬を付けて、棒を引き上げるタイミングが結構難しかった。

写し絵

A5ほどの紙に、漫画・イラストなどの極彩色の反転した絵が、10個位写っている紙が写し絵の元となるシートで、店で好みの図柄を選んで買う。

図柄をザット切抜き、水に浸し転写する紙に乗せる。そーっと絵の台紙をずらすと絵柄が鮮やかに残る。下手をすると絵柄が切れるので真剣だ。唾をつけて台紙を湿らせ、こすることもする。画用紙、筆箱などに、時には手の甲、腕に写し絵を張ることもあった。

手遊び

●影絵 電灯と障子の間で手などを組み合わせて影絵を作る遊び、きつね とり 蓑笠つけた船頭 など。

●粒や粒や 二三人の握りこぶしを前に出させ、「粒や 粒や 豆粒や・・・・」と唄にあわせて福をあてる。

●おふなべど 指2本を手首から内肘まで「おふなべど」と言いながら計り、丁度当たった言葉で占う遊び。お:親不孝、ふ:不良、な:泣き虫、べ:勉強家、ど:泥棒

人形さん描き

男の子は家で絵を描くことは、それほど多くなかった。描くときは大抵 空中戦 海戦 飛行機 戦車 など、戦争に連なるものがほとんどで、風景 静物 など描いた記憶はない。

姉もそうだったが、女の子は極まったように、美少女の姿の絵を描いていた。目は今ほどではないがやはり大きかった。

  

折り紙

女の子は千代紙で鶴・風船・オルガンなど折り部屋に飾ったりしていた。男の子も折り紙をしたが、騙し船・兜などだ。

新聞紙で頭に合せ兜も作った、三角に畳んで紙鉄砲、棒のように筒状に丸めると刀にもなる。当時は遊び方も男女で違い、混ざり合って遊ぶことはあまり無かったように思う。

 

竹わり

本当は学校へ遊び道具は持って行ってはダメだったのかも知れないが、冬季の室内運動場は、女の子の「竹わり」が大流行だった。北海道は竹が生えないので、竹わりは購入した。私たちは手籠などを編む店が近くにあったので頼んで作ってもらった。

皮付きの竹でサイズ20×1cmが10~12本。初めに順番を決め、歌にあわせて技を展開する。技の種類も多く、反射神経を要する遊びが多かった。技としては、 たて おこし まえ かえし きり など。

「ひとたて ふたたて みーたて よたて いつやの むすこさん なにいって やかまし ・・・」失敗すると交代する。

竹を組み手前をぽんと突いて、一本の竹を空に弾き、受け取るという高度の技なども皆で競い合った。

 

着せ替え人形

人形遊びは女の子の誰もが大好きな遊びである。布製の人形と着物を母親やお婆さんに手作りしてもらうこともあるが、多くは自分たちが紙で作り、出来た人形で遊ぶ。

作って置いた人形と着物と色紙、画用紙、糊、鋏など一式を入れた綺麗な箱を持って遊びに来る。

紙人形は画用紙に鉛筆で画く、全身像で12cm前後、女の子のほか家族も作る。この人形は着物や洋服を着せるためのもの、つまりマネキンの役目をする。顔の部分は差し替えるとお姉さんにもお母さんにもなる。子供服は流行に沿ったデザインを夫々が工夫して作る。帽子、靴、バックなどの小物などにも作る。出来上がれば、夫々の人形の服や着物をいろいろ着せ替えて、ゴッコ遊びとなる。

 

塗り絵

塗り絵はデパートから一銭店まで、いろいろの種類が売っていた。色刷りの袋には10枚くらい入っていた。袋の絵柄を見ながら子供たちは真剣になって選んだ。小さい頃から好みは男の子と女の子では違っていた。昔話や漫画も人気だったが、女の子は圧倒的にかわいらしい少女やお姫様を好んだ。

話をしながら灰色のアウトラインの中をクレヨンで塗るのは楽しかった。

 

ガラスの玩具

縁日などで、ガラス作りで音を出して楽しむ玩具が売られていた、「ポッペン」だ。シャンパングラスを逆さにして底をつけ、支柱は筒状の形である。筒の先から軽く吹き込むとピンと言う音がするので口を離す、するとポッペンと底の膜ガラスが音を立てる。始めはこわごわと、なれてくるとポッペン・ポッペンとかわいい音も楽しめる。華奢なガラスが微妙な吹き加減で音がするのが何とも楽しかった。

「万華鏡」 円筒の小窓を覗くと、華やかな色彩と形、が次々と展開するさまは正に別世界の感じだ。壊れた時、筒の中を開いてみた、三枚の鏡と色セロファンだけで、こんなに美しいものが出来るのかと驚いた。

「風鈴」 初夏には木枠に飾りつけた風鈴を担いで流し売りをする姿があった。「ふーりん ふーりん」の声と沢山の輝く風鈴の様々な音色が嬉しくて、子供たちは暫く後をついて歩いた。我が家でも、ガラスの風鈴を縁側につるし、音色で涼を感じていた。

 

糸電話

どの子供も一度は作ったことがあるであろう、あの糸電話。画用紙で紙筒を作り、筒の片方に薄紙を張って、針で穴を開け木綿糸を通し貼り付ける。糸の張り具合を上手くすると驚くほど良く聞こえる。筒がつぶれたり膜になる紙が破れたりして直ぐに壊れてしまう。

 

紙芝居

路地で遊びまわっている子供たちも、拍子木のカチカチの音を聞くと、一目散に紙芝居のおじさんが来るいつもの場所に駆けつける。水飴を買う子がおじさんの周りの集まり、拍子木を打ちを手伝う子もいて少しの間賑わう。売り上げに貢献した子供達は前方に、買わない子供も後ろに回り見せてもらう。我が家の近所は、母親が小樽港で稼ぐ家庭が多かったので、小銭をもっている子が結構いた。

出し物は、侍もの、数奇な物語など色々あったが、中でも「黄金バット」が人気だった。

おじさんは、3巻ほど傾向の異なる紙芝居を、声色を使い分け熱演する。子供たちは話に引き込まれる。話が最高潮になった時に、次回に続くと言って終わるのである。

 

紙風船

紙風船には球形とサイコロ形があった。球形のものは薄いが丈夫な紙が、彩り良く貼り合わさっていて、空気入れ口から胸いっぱい吹きいれると見る間に球形になる。大小の風船がセットになって袋入りで売られていた。大きいものはスイカほどだが手で突くとボンと鈍い音でノソーッと上がる。小さいのは手毬ほど、突くと軽い音でスーッと上がり心もとない。中形がいい。つき数を競ったり、交互に突いたりした。

サイコロ形は子供の掌ほどの大きさで、遊び方は同じだ。富山の薬屋さんが来ると、子供に土産として呉れるので、町で薬屋さんを見かけると嬉しくなった。風船には宣伝文句が書かれていたと思う。

 

習い事

周りの子供たちの中で習い事をする者は殆ど居なかったが、僅かに男の子は剣道 柔道、女の子は踊り、共通で 算盤 習字 程度。

私は国民学校6年生のころ、習字塾に行った。練習は何度でも書くことが出来る特別な紙に水筆で書き、最後は先生から渡された1枚の半紙に清書して講評を受け朱筆で直された。あまり字が下手だったので、母親が習わせたのだが、効果は少しも無く、現在に至っている。

 

読んだ本

「絵本」 幼児の頃は親や祖父から絵本を買ってもらった。その中で、今なお忘れられない大切な絵本がある。

それは祖父から貰った武井武雄作の二冊組の絵本で、日本人の初老の紳士が世界めぐり一人旅をする話だ。主人公の風貌が祖父に良く似ていたこと、海外の珍しい風景・民族は勿論のこと、世界の言葉が組み込まれていたこと、優しい語り口がいいこと、絵が美しかったこと、などで大きくなるまで私の大事な宝物だった。残念ながら引越しの時紛失してしまった。今日でも忘れがたく、作者の作品記録や出版された作品、記念館などで調べているが現存していないのかもしれない。

「講談社の絵本」 小学校に入学した頃から、「講談社の絵本」を買いに小遣いを貰うと近くの本屋に通った。

昔話、英雄伝、偉人伝、童謡、童話な多種の分野を網羅した大シリーズなので、選ぶのに時間が掛かった。友達同士見せたり借りたりした。

「少年少女の雑誌」 「幼稚園」は見た記憶はないが、小学生になると「小学1年生」を買ってもらった。以後「少年倶楽部」に至るまで続いた。「小学○年生」は教育と娯楽の総合雑誌で、多分影響を受け育てられたと思う。付録も楽しみだった。

戦時体勢下になり、小国民とても国防を担う責務を負うことを教えられた時代、青少年向け雑誌の内容は国政に沿ったものになった。表紙だけ見ても、時代の流れが分かる。そして、物資の不足で雑誌が次第に薄くなっていった。当時の雑誌には写真は殆ど無く、絵が大部分だった。挿絵画家の個性は写真以上の表現力があった。

少年少女文学、 講談本、戦争物、も読んだが、文学的なもので、記憶に残っているものは次の本だ。

コーカサスの捕虜、泣き虫小僧、家なき子、子鹿物語、川舟物語、日向村の少女、ニルスの冒険

子供の頃読んだ本の中で、外国の作家の小説でありながら、登場人物は和名というもあった。

漫画の本

現代、日本は漫画大国になり、読者層も厚くなったが、私の子供の頃は、漫画は子供が見るものだった。

主に雑誌の連載であったと思う。後に単行本になるものもあったが、人気漫画の数はそれほど多くは無かったが、戦時色の濃いものが多かった。

「のらくろ」は少年の一番人気の漫画。犬が主人公。野良の黒い犬が陸軍の兵士になり、軍隊の様々な体験を経て、大活躍する。兵隊は皆犬で、階級により様々な犬が登場する、連隊長はブルドック。大陸に派兵され、戦火を交えるのだが、支那人(中国人)が豚、ロシヤ人が狼だったと思う。中尉位まで昇進した後退役。満州(中国東北部)開拓を目指す。

「のらくろ」の単行本は布張りの立派な本で、回し読みで多くの少年が愛読した。

「冒険ダン吉」は「のらくろ」と人気を分かつ漫画。漂流した少年ダン吉と鼠のネズ公が南洋の島に漂着する。冒険があり、やがて蛮人と交流ができる。知恵者ネズ公、蛮コウとともに島社会の建設にあたり、後に島の王となる。裸に腰みの、王冠を被ったスタイルが印象的だ。

「タンクタンクロー」 時代は現代だが、鉄の球体を身につけた、戦国時代の豪傑風のキャラクターだ。黒長靴を履いている。球体には丸い穴が多数開いていて、必要に応じてピストル、刀、飛行の翼を出し、大活躍する。スーパーマン的出没とおばQの何でも出てくるポケットの両方を持つ強い味方であった。

「養子のフクちゃん」 角帽をかぶり、大きな下駄、着物にエプロン姿が主人公のフクちゃん。養子先のお祖父さんと書生の荒クマさん、近所の子などと日常のさまざまな出来事が描かれた、和やかな横山隆一の漫画。

「「赤のっぽ青のっぽ」 赤鬼、青鬼の子が人社会にきて、学校に入る。そして、様々な物語が展開する。武井武雄の漫画。

その他「凸凹黒兵衛」、「蛸の八ちゃん」があったが、黒ウサギの絵姿と蛸が服を着ている姿形しか思い出せない。

叔父さんの家に英語の雑誌があって、漫画が載っていた。その時初めてベッティ、ポパイとオリーブを見た。