高等学校 札幌

札幌の高校

学制改革による6・3・3制に切り替わり、新制高校の北海道立岩見沢高等学の初年生となった。高校の1年間は札幌から通った。

そして、2年生に進級の時期にあわせ、札幌の高校に転校することが出来た。生徒数の増加に学校の収容数が追いつかない事情があり、特に教育の制度改正が始動した過渡期にあったっていたので難しい時期であった。転校して間もなくして、幌西地区にあった札幌市立第二高校が廃校するになり、在校生を道立札幌第一高校と同第二高校に分配されることとなった。

多分お別れの式をしたのだろう、通いなれた校舎を後に徒歩の長い列になり、道立札幌第二高校に来た。学校統合後は暫く両者の沈黙の時期があったが時の経過と共に融和の取れた学級が出来た。しかし教室は身動きも儘ならぬ過密状態であった。この教室は夜間に学ぶ生徒もいた。

学友は都会の子らしさがあり、勉強外の知識、趣味なども豊かで面白人間が少なからずいた。

(道立札幌第二高校は後に道立札幌西高校と校名が変わり、現在の所在地は札幌市中央区宮の森にある)

 

小樽からの通学

高校2年の3学期にまたまた父の転勤に伴い家族ともども函館に転居した。転校先は道立函館中部高校だったが、札幌の高校とは全く異なる教科組であり、私にとっては真に不都合なことが分かった。止むを得ず1週間ほどで札幌の高校に舞い戻った。こうして3学期は小樽の手宮にあった祖父母の家から通学することになった。下宿などは未だ食生活上心配な時代ったので親がそう決めたのだった。今は廃線に伴い撤去された手宮駅から桑園駅までの汽車通である。汽車通の目に映る光景がある。

朝手宮駅からはガンガン部隊のおばさんが大勢乗り込み車内は賑やかだ。商売の相談やヤミ米取り締まりなどの情報交換をする。ブリキ製の背負い缶には鮮魚や魚製品がびっしり入っていて、その他雑貨など風呂敷包みの荷を上に乗せて移動する。その

かつぎやおばさんたちは行きに魚類、帰りにヤミ米などを運ぶのだが、統制経済の中にあって、闇取引は反社会的な商行為だと一口には括れない。都市と田舎双方の食の向上に多少なりとも貢献したと言えないことも無い。

車内の石炭ストーブで干魚など焼き、大きな弁当を開く、おばさん達は皆力持ちで活気に溢れていた。

 

 

小旅行

学校の行事だったのか、クラスの同好者の行事だったのか、今では思い出せないが、大勢の友達と連れ立って登別温泉に行った。戦後初めての団体の一泊旅行だった。昭和24年、生活物資がいくらか出回り始めた頃だ。旅行に出掛けるために母は羊毛ではなかったがセータを買ってくれた。宿泊先は第一滝本館だった。皆揃って散策に出かけ、地獄谷では噴出穴を巡るコースを回り活動する温泉の凄さに感激し、滝本横の間歇泉の吹き上げに驚き、大湯沼の広さにびっくりした。

大浴場観光の後の、会食も就寝もそれぞれに楽しかったのだろうが憶えていないが、女中さんが高々に積んだお膳を運ぶ姿と皆でその頃流行し始めた歌謡曲「星影の子径」を歌ったことは憶えている。

 

硬と軟

クラスの生徒には、風采には無頓着な秀才、快活でスポーツ万能、お洒落で都会的センスの持ち主、多様な趣味を持つもの、美術や音楽に通じているものなど様々いて、友達を通して学校の学風を感じた。

勉学の他、交友の楽しさが深まった。友は皆表面ではガリ勉はしてないようでもしっかり勉強して、格好よさがあった。

二高には勉学のほか、冬のスポーツ、美術、音楽などの芸術に熱を入れる生徒も多かったように思う。

教室の授業の様子は記憶が薄いが、幾何、英語、物理の先生の顔が浮かぶ、音楽の教師はいつも着物姿であった。声楽家としても有名だった。

 

美術部の生徒が大通り公園で雪像作りをした。今では札幌市の冬の一大観光イベントにまでになった雪像づくりの始めとなった。幼児の頃から雪だるまに馴染んでいたが、雪で芸術作品をつくることの発想に感心した。