弟が生まれた

私が国民学校2年生の秋、下の弟が生まれた。産婆さんに来てもらい自宅で出産することは、当時は極普通のことだった。

「今晩か明日の朝生まれる」と言われ、奥の座敷の襖が閉ざされていた。祖父母は前から打合せの通り台所で控えていた。姉と私は緊張と期待で中々寝付けなかった。

翌朝起きてすぐ「赤ちゃんが生まれたよ 弟だよ」と聞かれ、座敷に行ってみると母の脇に赤黒い赤ん坊が寝ていた。

気になりながら学校から帰ると、産婆さんが来ていた。

洗濯桶に湯が入って、赤子を抱き産湯と言うか湯浴みをしていた。初めのころは泣いてばかりの赤子も日が経つに連れ湯に入れると気持ちよさそうだった。上げると臍の緒がついている付近に黄色の粉をつけ全身も天花粉で白くなっていた。

産婆さんは何時も自転車に乗って鞄を持ってきていた。あの頃オバサンが洋服を着て自転車に乗っている姿は稀だった。家に入ると白い割烹着をつけた。

何日か通っていた産婆さんが来なくなると、母が赤ん坊の湯浴みをするようになった。姉も傍で湯を注したり産着の世話をしたりしていた。

この時だったか、もう少し幼い時だったか、私は母に赤ん坊はどんな風にして生まれるのか尋ねたことがあった。「お腹がパンと割れて生まれる」とのことだった。前に母のお腹の中心に縦線が薄くあるのを見せてもらったことがあったので納得。割れた時はすごく痛いんだろうな、と思った。

 

 

こたつ

父の考えで、高齢になった祖父母を呼び寄せ同居することにした。そして祖父母が会津若松から気候、風習の異なる北海道に渡って来て2年ほど過ぎた。食べ物には問題はなかったが、着物と冬の暖房は会津方式が良いという。

ストーブを赤くなるほど焚き、部屋を暖める北海道式では頭がボーとなり、温かすぎるとこぼしていた。その頃の鉄道官舎では、暖い時期は茶の間には長火鉢(鉄瓶に茶用の湯があった)、客間には丸型の火鉢が一般には用いられていたと思う。部屋によっては半畳の畳を上げると囲炉裏が在ったりした。祖父母が使っていた部屋にも中央部に囲炉裏が備わっていたので、やぐらに布団をかけ炬燵で冬を過ごしていた。道産子の私にとって炬燵は珍しい暖房だった。燃料の木炭を灰の掛け具合で温かさと火持ち時間を調節できることが判った。寝る時は布団の裾を炬燵に入れると、布団に入った時暖かだった。

炬燵のある時期には祖父母は殆どこの部屋で過ごしていた。その後、何度も転居を繰り返したが掘り炬燵の設えは無かった、一方祖父母もストーブによる暖房にも慣れていった。

 

護国神社の祭り

祭りが近づくと、通学の道に落葉丸太で小屋掛けが始まり、期待で胸が弾む。祭りの当日は学校は半休だったと思う。服装を改め、小遣いを貰い屋台や見世物小屋が立ち並ぶ街道へ勇んで出かける。道には幟が立てられ、祭り提灯も飾られ、家々の軒先には祭りの花飾りが挿されている。屋台では薄荷パイプやニッキ売りの店、日光写真、ピストル、ブロマイドなどを売る玩具の店、吹き矢とか簡易拡大器を実演販売する店、孵ったばかりのひよこ売りの店等々連なって欲しいものが沢山あった。既に統制経済の時代に成っていて菓子や飲食はほとんど見かけなかった。「こんにゃくおでん屋」は繁盛していた。

屋台の向かい側には見世物小屋がずらりと立ち並ぶ。手前からゲテモノ見世物が2・3軒、人形芝居、犬猿芝居、小規模のサーカス、オートバイサーカスなどが連なる。そして一番奥に大サーカスの大テントがあった。どの小屋でも客の呼び込みをする、そして時々幕を上げ舞台を見せる。あちこち下見をしてから木戸銭を払って客となる。

大サーカスには親と一緒に見物する。有田洋行、木下サーカス、キグレサーカスなどが有名だった。足芸、水芸、綱渡り、ライオンやトラなどの猛獣使い、大マジック、空中ブランコなどわくわくして見続けた。だが護国神社参拝の記憶はない。

 

ばくだん

バンと大きな音がする。子供達はこの音が「ばくだん」だと直ぐ分かる。音のする方向に駆けつけると、道路の脇にリヤカーと製造機、大きな金網の筒、金盥などがあり、小父さんがバクダンの機械のハンドルを手回ししている。ポン菓子のことを私たちは「バクダン」と言っていた。機械は携帯のガスで加熱する。圧力計が付いていて、頃合いを見て金棒で何かするとバンと大音と白い蒸気とともに、中に仕込んだ穀物が金網の筒にパッと飛び出す。辺りは香ばしい匂いに包まれる。

加熱の時間は退屈だが出来上がって取り出す時の一瞬が堪らなく興味を引く時だった。

委託加工してもらうバクダン菓子の原料は、米が多かったが、次第に乾燥したとうきび粒、大豆が主流となって行った。

頼む人は大きな笊を持ってきて、出来上がるまで待つ。まだ、砂糖や水飴が出回っていた頃は、金盥に砂糖を溶かしてバクダン菓子を絡ませて拳骨のように丸くしてくれた。いよいよ砂糖が欠乏の時代になると、サッカリンなどの人口甘味料で甘みをつけていた。

 

雨具

大方の子供は小学校の通学する一年生のときはゴム引きの合羽を着せられた。新調される時もあればお下がりの場合もある。

2・3年生になると、こうもり傘か番傘に変わる。登校時雨が降って無くても天気の具合で傘を持たされる。学校まで遠かったので止むを得ないことだが、無用の日は厄介この上なしだ。友達と傘を広げたり閉じたりしながら攻防して遊び、台無しにしてしまい叱られたことがあった。番傘は頑丈だが子供には重い傘で、開くとぷーんと独特の油の匂いがした。当時は和傘の張替えもしてくれる店があった。蛇の目傘は主に大人が使う傘で、軽くて品のあるものだ。

 

衛生状況

暖かになるとハエが飛びまわる。部屋の中心部ではいつも5匹ほどが飛んでいる、そこでフマキラー噴霧器が使われた。据付用としては「ハエ取りリボン」が吊り下げる。下部の隙間から入ったが出られなくなるガラス製のハエ取り器もあった。ハエも大小・種類もいろいろ、集まるところもさまざまだ。

よその家で夜布団の周りに南京虫捕獲用の細い角木を巡らせていた。角木には小さな穴が開けられていて朝穴に入った虫を捕殺すると言うことだった。

夏にはどの家も蚊帳を吊って寝ていたし、蚊取り線香はどの家も使う夏の必需品だった。

自家用の井戸からポンプで水を汲んで使う家も珍しくなかった。

女の子の頭の毛にシラミがたかることもあったが、特別目が細い櫛を使って髪を梳き、駆除していた。

終戦後ほど衛生状況が悪くなく、衣シラミは問題になっていなかった。

家ねずみが天井を走り回ったり、食料の食害防除のため時々ネズミ捕りを架けていた。病院や学校で注射する時は注射針をアルコール脱脂綿で拭き、何人も注射するのは普通のことだった。天然痘、ツベルクリンの予防接種もあった。虫下しが定期的に配われていた。当時の最大の病は結核だった。

 

技を売る大道物売り

昔から伝わった技を感じさせる大道の物売りたちの内で、思い出に残るものとして、次のが次の通り。。

先の三つは祭りの時で見かけたもの。

● おみくじ屋   台の上に間口30・奥行き60・高さ40cm程度の鳥篭を置いてある。鳥篭は手前が入り口、鳥居があり賽銭箱が置かれている、奥にお宮がある。その中間にTの字の止まり木が数本立ち、。おみくじを買いたい客は、鳥篭の傍にいるおじさんに、銭をはらう。別の鳥篭の中から四十雀をお宮のある籠の入り口へ移す。鳥は銭を嘴でくわえ賽銭箱に落とす、止まり木を、チョンチョンと止まりながら進み、ぶら下がっている太い綱を嘴で払うようにして鈴を鳴らす。最後にお宮の両扉を左右に開き、中においてあるおみくじをくわえ、きた時と同様に入り口まで戻り、おみくじを台におき仕事を終える。鳥の動きが面白いので、子供は大喜び。次々に大人のお客が付くといった按配。

● 切り紙   寄席にも切り絵の芸があり、テレビで見ることがあるが、あれと同様な芸を露天で見た。その時が切り絵を見た最初であった。お客の注文に応じ即座に、黒い紙を回しながら鋏で素早く切って、絵にしていく、見事な手さばきと見事なできばえで拍手が起きる。客の横顔を影絵の如く切り出し、額に入れて渡すこともあった。

● 飴細工  仕事台の上に、出来上がりの飴細工が見本として飾ってある。どれも薄く着色されたガラス玩具のような細工物で、飴として舐めるはもったいないような出来栄えである。作る過程がまた興味のあるところで、細い竹筒に張りつけた飴を伸ばしたり、鋏で切ったり、竹筒の穴から息を吹き込んだりすると、どんどん形が出来てゆく、最後に色づけして出来上がり。

買った子供は、大事にして持ち帰る。

● ガマの油売  羽織袴に鉢巻きたすき掛けと出で立ちからして人目を惹く。石の上に御幣を立て、抜身の刀をもって、名調子がいい。

紙吹雪が舞うころ合いが最高潮で、大勢の客は魅了された。 

● バナナのたたき売り  夜店でよく見かけた。

 

飼い犬

今時は離れ犬が街中をうろついているは見かけない。当時も犬を飼っている家はあったが、稀に室内で飼っていることはあっても、大方は外で飼われていた。散歩に連れていくのはあまり見かけなかった。一般的には犬小屋に鎖などで繋がれていた。運動させるときは鎖を放すと、後は犬が好き勝ってに行動する。その内に家に戻るのだ。そのため街中では離れ犬をよく見るのだが、野良犬なのか飼い犬なのか明確には分からない。時期になれば自由恋愛の行動に出っくわすこともある。通学途中で繋がった犬を箒で追いかけたり、時には水を掛けたりする小母さんを見かけることになる。子供の頃は犬の単なる行動だと思っていたが、慌てる小母さんの様子で見て、これは見てはいけないものなのだと思った。

残飯に味噌汁、魚のザッパが時にある程度の粗食だった当時の飼い犬、元気で自由さがあった。

 

食料不足へ

大東亜戦争開始の頃から次第に米麦、砂糖、食用油が不足するようになった。食堂では外食券が無ければ飯類は食べられなくなり、旅館の宿泊にも米持参か外食券が必要になっていった。パンの中に芋・南瓜がはいり、販売個数が制限された。

蕎麦屋には海草麺が代用されていた。一般家庭でも米飯の「代用食」と称し芋、南瓜、トウキビを食べることが次第に多くなってきた。

和菓子は僅かな数が週に何度か売られていたが、旭川が軍都だったからだと大人たちが言っていた。

米穀が配給制度となって、通帳がが配布されるようになった。配給量は大人一日当たり2合3勺だったというが、次第に食糧事情が悪化して、その後順調な配給が受けられ無くなり、終戦前後には欠配のこともあった。

 

相撲巡業

通学の途中の空き地に、長い丸太の組み立てが始まると、皆が待っていた相撲の地方巡業が近づいてきたことが分かり、期待が大きく膨らむ。毎日出来上を見るのも楽しみだ。櫓が出来,幟が立つ。旅館の玄関には宿泊する関取の名前が書いた大きな張り紙が貼られる。小さい宿屋にも、民家にも相撲取りの名前を記した紙が貼られる。到着日には旭川駅に見に行った。初めて本物の相撲取りを見たとき、着物すがたで髷をつけた巨体に驚いた。浴衣を着た若い相撲取りが大きな荷物を軽々と肩に乗せて後に続いていた。担いだ太鼓を打ち鳴らして町中を回るのを見たような気がする。通学時には仮設の相撲小屋の近くで、稽古をする相撲取や洗濯をする相撲取が居た。残念ながら、興行の取り組みは見られなかった。

 

大東亜戦争

尋常小学校3年生の時、昭和16年122月8日の朝起きると、ラジオから戦争が始まったことを知らされた。

子供ながらに重大なことになったと思った。学校でも戦争の話題で興奮していた。担任の先生は海軍で軍役を勤めた人だったが、戦争になった原因とかこれから国民は何をすべきか語ったように思う。日本はその頃すでに、支那(現在中国)との間で戦争中であったが、戦争と言わず支那事変といい、戦場は支那であったので、危機感は無かった。

今度の戦争を大東亜戦争と言い、アメリカ、イギリス、オランダ他を敵として戦う大変な戦争なのだと一同深く心に受け止めた。日に日に軍国少年に育っていった。

開戦直後はハワイ真珠湾攻撃、マレー半島上陸、マレー沖で戦艦撃沈と、連戦連勝が続き、ニュースの都度教室で一同がバンザイをした。昭南島(現在シンガポール)を陥落させた後に、戦意高揚のためか学校からゴムマリを貰った記憶がある。

戦争も1年も経つと、戦果を誇張しながらも、わが方の損害は軽微だと報道されるようになった。日本軍の戦死者にたいして、哀悼の心をこめて教室で「海ゆかば」を合唱してから下校した。

 

通学路の街並み

旭川駅前通りを師団通りと言い、通りの駅よりの左角に三浦旅館、その裏てに鉄道官舎の我が家があった。

校区の南東の端にある我が家から常盤公園の近くの小学校までは丁度1kmの距離だ。

旭川は升目状の街並みなので、通学コースを変え、見物兼観察するのが楽しみだった。

宮下通りから一条通りへ曲がると、鐵工場あり、螺旋を切るのが見え面白かった。隣の印刷屋では壁一面にある活字を、一個ずつ探しながら小箱に並べるのが早く、すごいと思った。当時としては珍しい自動車整備工場(英文字でFordの看板)もあった。醸造工場、私設図書館、飲食が出来るパン屋(同級生の家)、人気の蕎麦屋、旅館、髪結い、和楽器の店、歯医者(同級生の家)、芸者置屋?(同級生の家)、タバコ屋(同級生の家)、水引祝儀飾り作り屋では職人の巧みな造形を、桶作りの足さばき、籠作りの作業、ブリキ屋など興味の対象は色々あった。家の建築があると、出来具合の観察がつづく。よいとまけ、墨付け、カンナ掛け、鑿細工はすべて工事する家の前で作業する。壁土づくり、壁塗り、餅巻きのオマケも逢ったりして、いつも好奇心を満たしてくれた。

普段は静かな通学路だが、護国神社の祭典のときは、屋台が並び、見世物小屋がずらりと立ち並ぶ通りに変身し、大勢の人が行き交う。

少し遠回りとなるが、師団通りは商店が立ち並ぶので、店を眺めるのも楽しい。デパートは丸井、丸勝、サカヱヤが並んでいた。

デパートの通りには津軽民謡の路上芸人が居た。津軽三味線を弾き歌うのが盲目の夫で起立が出来ず(当時はイザリといっていた)、車付きの路面すれすれの板に座ったまま、妻も盲目で太鼓を打つ、小学生位の女の子が車を引き、母親の手をとる。そして親達のライブ中は街中で過ごす。客の投げ銭は、娘が掠めるのか、母親が手探りで素早く懐へ入れる。旅芸人なのかこの地に住んでいたのか。冬は橇で移動していた。多くの人が津軽民謡に聞きほれていた。

 

父の出征

札幌鉄道局員であった父が陸軍省の命により、軍属として南方へ派遣されることになった。戦争になって4ヵ月後、私が国民学校初等科4年生だった。命を受けてから出発までは1ヶ月ほどの日があった。用意した軍服、短銃、軍刀など何れも真新しいく、試着した姿はいつもの父と違って見えた。父は国鉄在職中に兵役を経ており、陸軍騎兵少尉だった。軍服の父を中心に家族写真を撮った。収納されていた箱の中の短銃や軍刀を秘かに触った時、何故か身震いがした。直ちに官舎を出なければならない、残る家族の今後の生活、学校のことなどで両親は急な対処を迫られた。我々子供にとっても一大事だった。その後、次第に戦争が激化し、終戦に至り、そして戦後の苦渋の時代を迎えることとなる。

父の派遣先はジャワ島、復員したのは私が中学2年生、昭和21年8月だった。

 

兵隊さんの馬

旭川市に住んでいた鉄道官舎は駅前の大きな旅館の裏手にあった。当時の旭川は師団のある軍都だった。駅前通を師団通りと呼んで市の主要道路であり、兵隊さんの姿はいつも見かけていた。

師団から公用で馬に乗って市内にくる兵隊もいる。家の表玄関は裏通りに面している、ここは人目につかず、馬を係留するのに都合がいいので、時々利用されていた。(現在駅近くの裏道路に駐車する如く)

当然、馬は興味の対象になった。時間の余裕があれば、駐馬の礼の積もりもあってか、馬に乗せてくれる兵隊さんも居た。馬の背がすごく高く、暖かい。裏通りを往復する間は、スリルと楽しさで有頂天に達するのである。

またある日、家の前に田舎から出かけて来たらしい高齢の夫婦が腰を下ろしているのを、母が見かけて声をかけた。聞けば兵隊の息子と待ち合わせをしている。限られた時間しかないと言う。母が家の座敷を使うように薦める内に、息子さんが来た。そして暫しの面会を我が家でした。

その後も母親と娘、姑と嫁など同様なことがあった。あの時の兵隊さんはその後どうしたのか、無事に待っている家族の元に帰ることが出来たのか。

 

友達の兄さん

分団の仲良しの友達にF君が居た。家も近かったのでよく遊びに行った。

F君には年の離れた兄さんがいて、いろいろ分団の面倒を見てくれた。兄さんは木工細工が巧みで、家具などの製作をしていたのだが、子供たちのために絵の具箱とか筆入れ、木製の玩具なども作ってくれた。アコーデオンの演奏も巧みで、歌謡曲、唱歌、軍歌など様々の曲を聞かせてくれた。子供の遊びの指導者的存在でもあり、学友たちの人気者だった。

この兄さんも出征、本州に行くこととなった。分団の友達は送別会をして写真屋で記念写真を撮り、別れを惜しんだ。

 

立小便

現在は公共の建物やビル、商店、公園にはトイレが至る所にあり、排泄の心配することはまず無いと言っていい。

子供の頃は公衆便所がごく限られた所しか無く、屋外などにあっては、汚く臭く暗いのが普通だった。

従って、道路脇や物陰で立ち小便するのは珍しい姿でもなかった。男の子は並んで、どこまで遠く飛ばせるか競った。「ミミズにかけるとチンポが腫れる」とも言った。男の大人も平気でする。右手を一寸かざして、他から見えないようにして。

女も年配になると立小便をすることがあった。男が道路の外に向かってするのに対し、女は道路の内に向かい、立ったまま着物の裾を一寸たくし上げてする。寒い時期に外出した時はやむを得ない。雪の積もった時期では暫く黄色いあとが残る。

生理現象の話は女の子の居る所では禁物である。すかさず「だらしないネー」と言われる。

 

近年、小樽観光に行った際、一般公開の旧家の豪邸内で女子用便所に立小便用の便器(展示のみ)を見た。特別なことでは無いことのようだ。