犬と猫

現在、多くの家で犬や猫を我が子のように可愛がっている。犬を散歩させる姿はごく当たり前の光景である。街中では離れ犬は見かけることもない。犬の種類も多く、小型の犬が多くなっている。住宅街では猫の姿もあまり見られない。買い物の祭、店先に繋がれた犬は、飼い主が戻るまで入口に向き哭き続ける犬、誰にでも撫でられるおとなしい犬など、ヤワな犬が大半である。

ホームセンターなどでペット用商品の種類と売り場面積からみても多くの飼い主は相当の出費をして、可愛がっているのが分かる。健康管理や終末の際も家族同様だそうである。

私が子供だった頃と犬猫の待遇には格段の差がある。当時は、犬猫の餌は人の余り物が主で、骨や魚が出れば彼らにとってはご馳走だった。

放し飼いをする家が多く、街中でウロウロしている犬をよく見かけた。犬猫の立場からすると自由があったし、動物としての餌をとる術も心得ていた。ネズミでも小鳥でも猫は獲物として獲り、人前で自慢げに獲物を弄ぶこともあった。

自然交配のため、生まれたての犬猫が箱にいれたまま捨てられているのもよく見かけた。犬の子、猫の子は貰うもので、買うものではなかった。

シェパードなどの大型犬、チンなどの座敷犬は特別な家が飼うもので、一般の家では中型の和犬が多かったように思う。盲導犬はなかったが軍用犬や荷車を惹く役用犬がいた。

人は犬猫を可愛がったが、人間と動物の関係であり、主従の関係だった。現在の様な「うちの子」的な関係では無かったと思う。

敗戦が近くになって、物資が不足し、特に食料不足が深刻化するに従い、犬猫の数が次第に減っていった。

戦争が終盤に近づく頃には、国も軍事用に使用するため、家庭内の鍋釜、火鉢ほか金物(特にアルミや銅製品)の供出を求めるようになり、隣組が国情を慮り協力し、各家庭がこれに応じた。

各学校にあった二宮金次郎の銅像が無くなったのもこの時期だった。

そして、終戦の前の年(1944年)遂に犬猫も供出の対象となった。当時の新聞の見出しに「ワン公も国のお役に」とか「犬は10円、猫は5円 公定価格」とあり、毛皮を航空服や北方派遣兵の外套、防寒帽などに使用するので供出せよとのお達しがでた。

新聞記事には、犬は決められた日に決められた場所に集める。猫は袋に入れて出すという。

私は実際に犬猫が供出される現場は見てはいないが、住宅地での針金の輪を使った野犬狩り(飼い犬でも繋がれていない犬や首輪のない犬)を見たことがある。

その後それらの供出された犬猫はどうなったのか。

北方千島に派兵されたであろう兵士が、小樽港から出港待ちの間民家に分宿した際、我が家にも兵士が泊まった。兵士が着用していた白い防寒外套、白防寒帽、防寒長靴に兎の毛皮のほか犬猫の毛皮が張り付いていた。それらの軍服を国民学校の生徒だった私も着せてもらった。

寒冷地に向かう兵隊さんの厳しい苦難を重く心に受け止め、犬猫もお国のため役立ったのだと思った。

犬猫を供出した際の取り扱いがひどく悲惨なものだったそうで、このことは戦後問題となったそうである。

わが ラストサムライ

手元に古写真が3枚ある。古写真(コシャシン)とは維新から明治中期頃までに撮られた写真のことを言ようだ。

其のうちの一枚がこの写真。写っているのは鈴木勝治郎、生まれてはじめて写真に納まった。右手に抜き身の日本刀、左の肩には鉄砲を掛けている。軍服様の服装ながらわらじを履いている。 写真のサイズは6×9センチ、下記の裏書がある。

明治拾年故正三位参議

陸軍大将西郷隆盛不義軌ヲ

計リ兵ヲ肥薩ノ間二起シ震慮

ヲ煩シ予等擧テ国難ニ趣キ

賊徒ヲ誅伐シ唱凱歌帰路

神戸港於テ港川社前写形影

征討別動隊第三旅團

第壱大隊第一中隊二番小隊

鈴 木 勝 治 郎

 時ニ貮拾年弐ケ月

書かれている文を手がかりにして、彼の身辺を時代の背景を含めて調べてみた。明治維新後の日本が大変貌をする時期を生き抜いたのか少しずつ分かってきた。

鈴木勝治郎は私の母方の曽祖父に当たる。

勝治郎が西南戦争の激戦を終え無事に帰還することができ、帰途神戸に立ち寄った際初めて写真館の存在を知り、戦勝の高揚した気分にまかせて、記念として肖像写真を撮ってもらったのではないかと想像できる。

当時は写真館まれな存在で、写真代も高価だったらしい。名刺判大の写真が当時1円程度で今の価格では1万円にも及ぶもののようです。従って客の大部分は裕福な商家か外国人だったとの記録もある。

薄給ながら写真を撮ってもらった若者の気持ちを聞いてみたい気がする。

西南戦争は明治10年(1877)の時期であるが、この覚え書きには20年2ヶ月とある。これは満年齢を書いたものと思われる。

勝治郎は安政4年(1857)、福島県会津若松で、会津藩士の長男として出生しました。江戸幕府から明治維新にかけて近代日本への時代変革のさなかに少年期、青年期を過ごした。下田条約締結が1歳時、池田屋事件が8歳時、戊辰戦争で会津藩が降伏したのが12歳の時だった。

会津藩は幕府防衛のために最後まで長州・薩摩軍と交戦したが及ばず、そして戦後会津藩が受けた措置は非情なまでの過酷なものだった。後、1870年には東北の南部の地に「斗南藩」として再興を計り、71年には新政府より北海道への開拓を命ぜられている。

新政府は、戊辰戦争の結果無防備となっていた北海道に謹慎中の会津藩士を送り、開拓民兼有事の際の軍隊とする考えがあった。

北海道に新天地を求め、瀬棚町、余市町、札幌市琴似、北檜山町はゆかりの地となった。家族と共に船で北海道に渡る様子を記述したサイトもある。2005年公開された映画「北の零年」の前半と同じく過酷なものであったと思われる。

戦後処理の会津藩の記録はあるものの、勝治郎の生き様は不詳である。しかし禄を失っただけでなく藩士であった家長は東京で謹慎の身となったとされており、残された家族の生活は困窮したものであることは想像に難くない。

一方、この時期にあたり、新政府の指導的立場に居た西郷隆盛が「征韓論」に敗れ、薩摩に去った。そして、政府のやり方に不満を持つ者が西郷をおしたてて反乱をおこすにいたった(1877)。反乱軍と政府軍との交戦により両軍の死傷者3万人に及ぶ国内最大の戦争となった西南戦争である。

旧会津藩士の倅が西南戦争に従軍した経緯は次の通りである。

西郷隆盛が鹿児島に帰るに当たり、同郷の軍人や巡査(旧武士)の多くも彼に従って新政府の元から去っていった。その為、政府は警察官が手薄になってきた為補充を急いだ。

直ぐに役立つプロの軍人旧武士の起用が急務あるとして、政府は旧会津藩の家老だった鬼勘兵衛とあだ名がある佐川勘兵衛に東京警視局入りを促す。始めは固辞した佐川だが明治7年(1974)旧藩士たちの生活の道を開く為、招請のあった300名の旧藩士を率いて警視庁入りをしている。こうして勝次郎は18歳で警察官になった。

明治6年、徴兵令が布告され、官軍は農民が中心に組織されたが、軍事教練もまだ十分でなく、戦力に欠ける状態であった。そのため士族の警察隊が必要だった。

反乱軍の制圧の為、政府命令により警察隊は1877年2月東京から船で小倉に上陸し、各地を転戦した模様だ。(写真裏に所属部隊が詳細に書かれているので、戦記と照合ができる)

政府軍に警察隊「抜刀隊」が編成され前線に投入された。

「戊辰の仇」を晴らさんと宿敵薩摩藩士と斬り結び、その勇猛果敢な戦いは、会津武士の名を天下に轟かしたそうである。

写真の抜き身の刀を誇示している姿から「抜刀隊」に属し、奮戦したのかも知れない。

西南戦争では、数千人の警察官が動員されているようだ。旧会津藩士だけではなく、その前後に警察官になったのは幕府側で戦った「賊軍」とされた旧武士たちが多かったといわれている。

勝治郎は失業対策と賊軍とされた恨みを晴らすのに警察官になり、そして勝利して帰路についたのである。

官軍の死者が6,800名、負傷者が9,300名であった中で無傷の帰還ができたのであった。

 

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

<余談>

勝治郎が記念に残した他の写真も裏面には撮影年月日、誰が、何処で撮影したのか詳細な記述がある。自分の氏名はどの写真にも鈴木勝治郎と記されている。だが、戸籍謄本では勝次郎とあり、父鈴木源之助 母キンの長男と記載されている。長男の名に余り次郎と付けることはないのではなかろうかと思うのだが。

一方、私が国民学校6年生の頃、母親から「会津戦争の際自決した「白虎隊」の中の鈴木源吉は勝治郎の兄であると聞いた」と話してくれたことがある。詳しいことは忘てしまった。両者間の関係は不明である。私は兄弟ではないが何か繋がりのあるのではないかと思っている。

源吉が自決したのが17歳、当時勝治郎は12歳であった。

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

「前線に送る夕べ」

私たちは戦争に対する構えを学校でも、新聞、ラジオからも強く教え込まれていた。

従軍兵士に対しても励ましと感謝の気持ちを手紙や慰問袋を作って送った。戦地まで無事届き、返事が来ることを心の隅にあったが、無かった。

ラジオは身近な娯楽だったが、「前線に送る夕べ」(正確ではないが)という番組が定時に組まれていた。前戦まで電波が届いていると思っていた。銃後の国民の戦意を鼓舞する為の放送だったのかも知れない。番組のテーマソングは「ハイヘンスのセレナーデ」だった。今でもこの曲を耳にすると、あの当時がよみがえる。

新聞もラジオも誇大に勝利を告げ、「わが方の損害は軽微なり」と報じ、私たちはそれを信じていた。

 

アイスキャンデー

夏になると店開きするのがアイスキャンデー屋さん。氷水やラムネも売っているが、子供に人気なのはアイスキャンデーだ。

手宮駅近くの銭湯へ近所の子供たちが誘い合って行く。帰りに途中にあるのがこの店。新しく冷凍機がはいったので製造するのを見るだけでも面白い。曖昧な記憶では横2経10のブリキの筒を2連になった容器に、色つきシロップ液を流し込み、箸を1本づつ差し込んで冷凍庫の上蓋を開いて入れる。前に入れた氷結した物を容器ごと水に浸し、箸を引き抜いて冷凍庫の別の蓋を開いて保存する。

この製造機が入る前はガラスの試験管を使って、1本1本作っていたので、今度の機械が沢山売れても、どんどん製造できるのに驚かされた。1本い幾らだったかは思い出せない。

 

早春、曇の空を見て大人たちは「初鰊」の日が近いことを話題にする。

その後、「鰊獲れたんだと」「家は夕べ食べたたんだから」と初物食いの喜びが交差する。鰊魚は小樽の近海から始まり石狩湾を北上しながら留萌方面へ魚場が移動する、漁期も一月半くらいあったように思う。

初めの頃は家族が一尾の見当で魚屋から買う。どの家でも夕餉に向け外に七輪を出し、尾頭付きを煙がぼうぼうと立てながら焼く、油が滴り火がつくので子供が魚焼きの手助けをする。鰊漁が終わるまで、どの家でも様々な調理方法の鰊を食べた。

鰊の買い方も北海道らしく、どの家でも子供の数が多く、老人を含めると大人数だったこともあって木箱入りの鰊を2箱、3箱と買う。初めは生鰊を素焼きだが、丸子の一夜干、開き、ミガキと変わる。数の子は干して正月用の食材にする。

簡単な焼き魚の他、かまくら、ぬた、つみれ汁、たたき、酢漬け、塩辛など。ミガキ、糠漬、燻製となる。保存食とし、更にこれらがイズシ、昆布巻き、三平汁、鰊漬けとなって年中鰊を食していた。母方の祖母が塩谷の鰊魚場の出であったので他にも鰊料理あった。祖母の弟は樺太へ漁場を求めて移り住んでいった。

小樽港の手宮辺りにも鰊舟が荷揚げをする。辺りは鰊と人でごった返すほど。鰊を積んだ荷車を赤いケットを着た男が挽き大きな役用犬が活躍する。手宮の魚加工場も繁忙期になり、川は魚臭い。山手の方にはミガキ鰊干し場が並び、町が匂いで満ちる感じだ。三期までの鰊漁も終わると、ホッケの時期に移る。

 

パチンコ

子供がパチンコといえば、又になった木の枝を手のひらサイズに切り、生ゴムを両端に結わえて、小石などを飛ばす、また紙飛行機の頭部を引っ掛けて飛ばす遊び道具のことだ。

大人はチン・ジャラジャラだろう。昭和18年頃、手宮館近くにこのパチンコ屋があった。小さな店で昼間はカーテンで閉められ、夜に営業する。

夜でも混むほどの客はいなかった。中を覗くとパチンコ台が10台ほどと大きなコリントゲームが1台有った。

先に買ったメダルをパチンコ台の横の切れ込みに入れと玉が出るようだった。

 

一銭店屋

私の住んで家の坂下数軒先に「一銭店屋」があった。子供が小遣いを手にして集まる小さな店である。店には活動写真の俳優のブロマイド、ぱっち、ビー玉、ピストルの玉、花火など子供が欲しいものが沢山あった。菓子は大分前から少ない時代になっていたので、あめ、ハッカ、ニッキ、ノシ烏賊、ほしいも程度だった。母親も仕事にでる共稼ぎの家では留守番をする子供に結構な金額の小遣いを渡すと見え、使い振りも良かった。

私は小遣いを貰ったことはなかった。それは母が一銭店で買い物することに抵抗があったからのようだ。近所の子供について行って彼らがあれこれ品選びをするのを見ていた。くじ引きで大当たりをすると一緒に喜んだ。

一銭店から更に坂下を少し下った先に、何でも屋とでも言うか、百貨店の超小型の店があり、玩具などもあった。子供の手の届かないところに品物が有ったり、ガラス棚にあり、いちいち店の人に取ってもらわなければ品物に振れられず、あれこれ言うと仕舞には小言をいわれるので、子供だけで好きな買い物が出来る一銭店屋は子供に人気の店だった。

 

映画館

その頃映画館を活動写真館と言い、映画のことは単に「活動」で通じた。

手宮地区の繁華街に「手宮館」があった。入ると「下足取り」があり履物を預ける、館内は畳敷きなので、家から座布団を持参する人も居る。干し芋、みかん、スルメなども持参する。微かに便所の匂いもする通路に売店もあった。チャンバラもの、兵隊ものなどをよく見た。エノケン、ロッパ、あのねのおっさん、の喜劇も記憶にある。悪者に襲われ絶体絶命の時白頭巾の丹下作善が助けに現れたり、悪者を捕り手が駆けつけたりすると、観客が拍手や大声援を送ったりして一時を楽しんだ。

活動写真は一番の娯楽だったのである。

 

古代文字

高架桟橋からの帰り道に「手宮古代文字」がある。簡単な覆いがあって、文字を解釈したものがあったが、薄気味の悪い所としていつも急いで通り過ぎた。子供の頃、文字を解読する学者が「一族が逃れてここにたどり着いた」と言うのを聞いたが、後年になり文字ではなく何かの形を表記したものとなった。

 

国民服

戦意高揚の思想が一段と強まる中、成人男子の服装に国民服を着用者が多く見られるようになってきた。働き着ではなく外出や防火訓練、出征兵士の見送などの際に着る。色も「国防色」とよぶカーキー色だ。帽子は戦闘帽を少し高級化したものであった。訓練の歳はゲートルを巻いた。一方女性は「モンペに上着」。木綿の絣で縫い上げると普段着、銘仙などの和服を仕立て直すと、外出着となる。白の割烹着もよく着用されていた。

その頃、「人絹」とか「スフ」なる人造繊維の布地が売られていたが、耐久性が劣るため不評だった。スフの混じらない繊維を「純綿」といい、転じて芋や豆など入らない米の飯を「これ純綿だよ」などと言った。

 

自宅で結婚式

父が軍属勤務で外地に派遣された後、我が家族は母の実家に身を寄せていた。まだ独身で鉄道に勤務していた母の弟は私の家庭教師だった。その叔父さんが結婚することになった。お嫁さんの家も鉄道員で、殆どが鉄道員であった一族が更に大きくなった。自宅で結婚式をした時、私は三々九度の杯ごとで雄蝶の役をつとめた。戦時中にあったが、続いて質素ながら料理も出て披露宴が開かれた。酒は特別配給があったそうだ。質素と言ってもまだこの当時お嫁さんは日本髪を結い、婚礼衣装だったし、叔父さんも紋付袴を着ていた。家で主だった親族だけで結婚式、披露を執り行うはごく一般的だった。

終戦前後の頃に小さい時から姉妹のようにしていた親戚の娘が結婚した時は、新郎は洋服、新婦は普通の着物に頭に白い飾りだけの更に質素な服装だった。

 

手宮の合宿

手宮駅の近くにあった鉄道乗務員宿舎は「手宮の合宿」と呼ばれ、出張した職員の宿泊所でもあった。昭和の初め頃、合宿のj実務を母方の曽祖父母がしていた。曽祖父は会津若松の武士の出で、後に西南戦争に従軍したことのある厳格な人物、曾祖母は津軽の出で、お人よしで気前のいい人気者だったと言う。厳しい主人とゆるいおかみのコンビだ。オカミは「おばば」と呼ばれ、当時手宮では有名人だったそうで「手宮のおばば」の宛名書きで手紙が届いたと言うエピソードがある。女性従業員(女中)に対し、仕事の厳しい躾は嫁に任せ、おばばは大雑把で好待遇だったので女中の受けがよく、鉄道員との縁結びなどもしたという。主人もおかみも経営感覚に疎かったのかも知れないが、合宿を続けられたのは影の人物のお陰である。

その両人の長男だった祖父は既に築港機関区に勤務していて、合宿近くの官舎に住んでいた。嫁だった祖母はしっかり者で何でもできる人だったので合宿の切り盛りは彼女に負うことが大だった。朝から合宿の手伝いに行くため、長女だった母は小さい頃から、家事から弟妹の面倒までしたと言う。

手宮の合宿で家族が忙しくしていた頃は、手宮が全盛の頃だったのかも知れない。

 

手宮高架桟橋

夏近所の子供たちと泳ぎに行く一番近いところが、手宮高架桟橋付近だった。桟橋の長さは200メートル以上沖に向かって作られていた。当時は既に石炭の荷積みは廃止していて、高架部分は取り払われ基部だけが残っていた。海は水深が良く見えて綺麗だった。基部の柱には「ホヤ」がいて兄さん株の年長者が採るのを見ていた。

私が泳ぎを覚えたのは桟橋の基部で、足が立たない所だった。

 

除雪車の無い冬の道

小樽も結構降雪量が多く、家の前の坂道は荷物の運搬には苦労が多かった。馬橇が通れない時は犬が橇を引いていた。降雪があっても除雪車が来てくれる時代ではないから、家の前の除雪は夫々が行う。

狭い道路では排雪の場所も無いので、積雪は踏み重なり次第に道路は高くなる。そのため家の入り口から何段も階段をつけて上がることとなる。道路の両側の家が夫々に階段を作るので中央の道路幅は次第に狭くなる。そんな道路を馬橇が通る時は道路脇にずり落ちないように気をつけなければならない。

糞尿の汲み取りは降雪前に済ましておくのが慣わしとなっていたのだが、家族が多いのか、何かの事情で仕方が無かったのか、こんな道路事情の最中で汲み取りをしてもらっている家があった。家の周りも雪の山になっているため、畳を上げた家の中を桶を担いで階段を上がって馬橇の上の箱に収めていた。終わるまでは通行不能のため引き返えったが、何事も起こらずに済んだのだろう。

 

小樽運河

その頃の小樽運河は、倉庫に荷揚げ、船積みの場所であり、観光とは無縁の存在だった。

運河には多くの艀が係留されている。艀とは沖に停泊している貨物船との間で積荷を輸送する船で、平底、平甲板、の木造船だ。人が居住することもあったのか、洗濯物が干してあったり七輪コンロがある艀もあった。

我が家の近所に夫婦が港湾労働をする家があり、そこの子供と運河に行ったことがある。数人が肩当をして半折した麻袋で頭を覆って、倉庫からか俵を担ぎ、渡り板を渡って艀に運でいた。渡り板の傍にマンボ取りがいて数確認の印の木札を渡す。荷が積まれると引き舟で沖に向かう。荷扱いの労働者は男も女もいた。友達の母さんは人の倍の仕事が出来る力量者で近所でも評判だった。

 

戦時の暮らし

昭和19年か20年の頃。大東亜戦争が真っ最中、銃後の我々も前線で戦う兵士を思い戦争一色の暮らしをしていた。食料も次第に不自由になり、代用食として顔や手が黄色くなるほど南瓜を食べた。金属の回収があり、鉄製、銅製の家財道具、指輪など貴金属なども供出の対象となった。「欲しがりません 勝つまでは」「贅沢は敵だ」と言っていた内はまだ余裕のあった頃だった。家々の窓ガラスには被弾爆風に備え飛散防止のため細く切った紙を交差して貼り付けた。夜間の空襲に備え家から灯火が漏れぬよう、遮光することが求められ、窓や戸には遮光幕、電灯にも黒布の覆いを備えていた。家々には防火用水、梯子、火はたき、とんび、ロープ、を置き、隣組の住人はバケツリレーの訓練もあった。

家の前は割合広い道路であったので、道路の向こう端に防空壕を掘ることと成った。すでに道路端は家庭菜園とし勝手に夫々の家で使っていた。人が入れるほどの深さまで人力で掘ると言うのは大変な作業でした。壕の天井部には土を盛るのだが、支える木材も鉄板も直ぐに手に入らなかったが、何とか古材を工面して作った。何回か入ることはあったが、いつ天井が潰れるか心配であった。平時でさえ強度の心配な防空壕が被災時時に役に立つとも思えないものだった。

防空頭巾と救急鞄はいつも身近に置いて寝た。幸い爆弾・焼夷弾の被災は無かった。

 

敵機襲来

家の前の坂道を少し登ると道に沿って公園がある。手宮公園である、栗の木が多く、子供たちは実りの秋が楽しみなところだ。この公園の上部に陸軍が駐屯していた。夜間にサーチライトを照射することもあった。ある晩、サイレンが鳴り空襲警報が発令された。家の電灯を消し、ドキドキしながら外を見ると、「ばいてんやま」(手宮公園のある山)から何筋ものサーチライトが照射され、敵機が瞬間ではあったが白く見えた。高射砲が激しく発射されたが、命中した気配は無かった。

敵機の銃撃を受けたことが一度ある。日付は忘れたが、自宅の裏通りを歩いていた時、突然「敵機襲来!」と大声で叫ぶ声がした。急いで道路脇の防空壕に退避しようとした時、凄い速さで黒い飛行機がこちらに向かってきた。轟音と共にダッ ダッ ダッという音が道路の上を走った。とっさに両手で目と耳を押さえ、口を開けて腹ばいになった。機関銃に打ち抜かれるのではないかと思ったが、敵機はそのまま飛び去った。子供心に受けた衝撃は大きかった。

 

墓地の餓鬼

物不足が次第に色濃くなってきて、家庭からの金属供出もおこなわれた。鉄は高値で取引されていたのだろう。

盆に長橋墓地に墓参りに行って驚いた。墓石の周りの鉄棒の囲いが全部無くなっていたのだ。周辺の墓地も同様、全部盗まれていた。

墓掃除や供え物したりしていると、いつの間に来たのか2・3人の男の子が遠巻きにこちらの様子を窺っている。

お参りが終わり、帰り支度をすると子供たちが近づいて来て、帰り道で振り返ったときには食べられる供物の取り合いをしていた。今では衛生上と害鳥対策上、墓には花以外の供物は持ち帰るかその場で参拝者が食し、墓には供物は残さないが、以前には供物はそのまま残してきた。物不足の頃であっても、盆暮れにはいろいろ工面をしてご馳走を作っていた。供え物も特別の食べ物だった。近くに住む生き仏の腹の足しになったのだ。

 

鉄道官舎

小樽の手宮は北海道の鉄道発祥の土地であり、機関庫や駅、操車場、石炭の積み込みなど、鉄道にかかわる施設が多くあった。従って、鉄道で働く人の為の住居などの施設もあった。手宮駅の近くには、乗務員の宿舎、診療所があり、手宮公園下までの小樽港が見渡せる傾斜地には鉄道官舎が階段状に立ち並んでいた。官舎団地の麓には官舎の住人専用の街の銭湯ほどの風呂があり、その近くには幹部が住む二階一戸建て官舎があった。

官舎団地には一戸建て官舎から四戸建て長屋までがあったが、棟の間が広く取ってあり、家庭菜園となっていた。昭和19年頃になって団地内に立派な防空壕が沢山作られた。そこは子供の秘密の遊び場ともなった。

これらの官舎のうち二階建て官舎一軒が後年北海道開拓の村に移築保存されたのだが、特徴の上げ下げ窓は子供の頃住んでいた札幌の官舎にもあった窓だったので、とても懐かしかった。

 

冬の子供

手宮公園に向かう長い坂道は子供にとっては橇遊びの場所となった。橇は荷物運搬用を使う頑丈な作りだった。2人乗りして猛烈な速度で滑り降りる。一寸のことで一大事となるほどのスピードで、白煙を立て、人がいと「去れよー 去れよー」と大声を出しての滑走だ。

母は危険な橇遊びを許さなかったが、隠れて滑った。そう言う母も子供の頃はゲロリと呼ばれる、下駄に金具を取り付けたスケートで坂滑りをしたと言う。女の子も竹滑りをしていた。スキーで坂を滑るのは見なかった。

あの頃の子供は家の手伝いを良くした。除雪は子供の仕事、石炭出しもしていた。家に水道が無い家も多く、共同の水道栓までの水汲みも子供がする。水道栓の周りは氷が張っていたが、なみなみと張ったバケツを天秤で担ぎ、坂道を上手に運んでいた。

 

北方派兵

我が家の二階の窓から小樽港が一望できた。時々、軍艦が入港する。主に掃海艇や駆逐艦だが、時は巡洋艦も入港する。巡洋艦は船体も大きく大変立派な艦だった。港を見張ったり、見たことを話題にすることも憚れる時代だったが、そのような日は教室でも話題になった。輸送船団が入港することもあった。

昭和19年の秋頃、隣組を通じて兵隊さんの分宿の命があった。我が家に来たのは20歳位と30歳近い陸軍の兵隊だった。家中で歓迎し出来る限りの歓待をした。

兵隊にあまり尋ねるのは良くないことだとは知りながら、いろいろ聞きだした。

東北出身者で家は農業をしている、若年者は独り者だが、年長者は嫁も子も居ると言う。兵隊の服装・装束が今まで見たことの無いものだった。白い外套の内側は犬かウサギの毛皮がはってあり、帽子も白兎の毛皮張りで他に毛の耳かけがあった。軍服は上下とも綿入れのようだ。履物はフェルト様の長靴で所々に革が張ってあった。これらの外套や軍帽を着せてもらった。銃や剣を携帯していたかどうかは記憶しないが、携行するものは長さ1m一抱えほどの筒状をしたゴム製の袋に入れられていた。

兵隊の服装装備と持ち物を見て、これから千島あたりに送られるのだ、と口に出さなかったが家の者は思った。何日滞在するか伝えられぬうちに2日後に突然去っていった。

その頃の戦局は相当厳しくなっていたので、行く方も送る方も今生の別れになるのでは無いかと思ったことだろう。

あの時の兵隊さんは無事に東北の故郷に帰ることが出来たか、戦時のことを思い出すとき、必ず脳裏を掠める。

 

模型飛行機

国民学校6年生の頃、日ごろ読む「少年倶楽部」に海軍、空軍の戦闘の絵や話に、血が騒ぐ時代である。特に梁川剛一、樺島勝一画家の絵は深く脳裏に刻まれ、雄姿がカッコよかった。男子の子供はみな挿絵を真似て絵を描き、模型飛行機に熱中した。

子供が作る模型飛行機はゴム動力の飛行機とグライダーである。飛行機材料を売る店があり、店内には模型飛行機の見本作品が沢山飾られていた。セット物とばら売りがある。セット物には組み立て材料と製作図が入っている。ばら売りの竹ひご、アルミ管、ヒノキ材、杉板、ゴムひも、張り紙などが揃っている。

初歩段階では竹ひご製の翼と檜材の胴体のもの、次に翼に桐材を組み込んだA-1型と順に立体化して段階的に高級機種を目指していた。

材料から作成する過程が実に楽しい、出来立ての飛行機を飛ばすときは特に熱が入る。よい出来に気をよくするときも有れば、墜落、破損することも有り、いろいろ試行錯誤をするのも楽しみのうちだ。グライダーの引き具を作成中に、手元が狂い鑿を腿に刺し大騒ぎしたこともあった。

校庭に自慢の飛行機を持ちよって滑空時間や飛行距離を競いあった。

 

木炭バス

当時のバスはボンネット型で後部に木炭ガスの発生装置をつけていた。木炭か小ぶりの薪が燃料なので、近くによると暖かく、タールの匂いがした。時々運転手が燃焼具合調整していた。ハンドルの付いた風送りがあったと思う。

小樽駅に行く時にバスに乗ることもある。中央バスの運行コースを思い出してみる。いつも「少年倶楽部」を買う本屋、船具を商う大きな商店の角を曲がって舟橋に向かう街道に出てから右に回る、中央バスの本社前、小樽随一のホテルを右折すると小樽駅の通りにでる、右手に後に火災した菓子の「愛信堂」があった。

 

門前の小僧

クラスの友達でT君がいた。背丈は小ぶりだが明朗闊達、頭脳明晰でクラスの人気者だった。ある時、教室で何人かの友達に女郎の話をした。他愛の無い程度の話なのだが、6年生の子供にとっては信じがたい話だった。彼は灯街にある医者の息子だった。病院に出入りする女たちの話を耳に挟んで話のタネにしたのかも知れない。

活動写真を見に行く時にはいつも通る道筋にT君の家がありその向かい側に、「御料理」と看板がかかった家が何軒か連なるようにしてあった。客引きの女もいて、何となく得体の知れない家だと思っていた。婆ちゃんに聞くと「後家やだ」と言ったがそれ以上聞かなかった。T君の話で「御料理」の正体が判明した。小樽を離れてしまったので、その後T君とは会う機会もないが、うわさでは東京でマスコミ関係で活躍したらしい。

 

代用品

鉄、銅など金属の不足が深刻になり、お寺の鐘まで供出されるまでになった。隣組を通して金属の回収もされて、国民は勝利のためにと、金属廃材・雑品を始め、銅の薬缶、鉄鍋、火鉢など様々の家財、指輪などの貴金属を供出した。

日用品にも金属に変わる物が出てき。子供の身の回りでは、学生服のボタンが金ボタンから瀬戸製のボタンになった。ボタンの糸がよく切れたことと割れることがあった。アルミ製の弁当箱は木製の箱に、筆入れも木製になった。ブリキ製湯たんぽも瀬戸物に、栓の隙間から熱い湯がジュクジュク溢れ出て来ることがあった。その他、屋外のブリキ製煙突が土管製になった。竹釘、竹レコード針など様々の代用品があった。